初めて彼女に出逢ったのは何年前だったか。すっかり忘れてしまった。
 

 ある日ボスに呼び出されて訪れた彼のオフィスの、来客用のソファの片隅に所在無さげに座っていたセーラー服の少女。それが彼女。
 その頃はまだ背中の半分まであった髪を紺色のゴムでひとつに束ねて、時折胸元のリボンを弄る指先の仕草がひどくあどけなかったのを覚えている。
 お前にも紹介しておこうと思ってな。しばらく面倒をみることになった...ああ、ええっと、名前は。
 気丈にも答えようとする少女を遮って、ボスは続けた。
 そうだな、お勝でいい。どうだ勇ましかろう。
 肥満した腹を揺すって笑うボスを、彼女は呆然と見つめてその時にやっと自分の立場を理解したのかも知れない。
 1時間後に車を用意して迎えにくるように言われ、その通りに顔を出すとボスの姿はもう無く、目の縁を真っ赤に染めた彼女だけが一人で俺を待っていた。
 用意されたホテルの部屋まで送り届けるために、オフィスを出て長い廊下を歩いているとすぐ後ろを歩いていた彼女が、あ、と小さく悲鳴を上げて立ち止まった。
 何事かと振り返って見ると、立ち止まった彼女の折り目の崩れかけたスカートの裾から覗く細い脚を、つぅ、と一筋、血が流れて真っ白なソックスを汚している。
 ハンカチを差し出そうとする俺を留めて、彼女は言った。
 いいの。これ、もう、いらないから。
 そうしてあっさりと靴下を脱ぎ捨て、ついでに踵のすり減ったローファーを蹴り飛ばすとそのまますたすたと裸足で歩き出した彼女を俺は慌てて追いかけて、俺たちの歩いた跡には彼女の中から流れ続ける血が点々と床に紅い花を遺した、そんなこともあったのだっけ。
 彼女がここに連れて来られた理由は小さな会社を経営していた彼女の父親が借金を作ってその担保に娘を差し出した、というよくありがちなごくつまらないものであったが、新しい名前と人生を得た彼女自身はそんな逆境にもめげずなかなか面白い女に育っていく。
 実の娘を売った人でなしの親父が行方を眩ました挙げ句、身元不明の腐乱死体として埠頭で発見されたことを告げられた時にもとてもつまらなそうに、そう、と短く呟いただけであったくらいに強固に、俺が真っ昼間のオフィスでボスの膝の上で腰を振っているのを目の当たりにしても、あら失礼、と薄く笑みを浮かべてそっとドアを閉めるくらいに不敵に。
 思いがけない彼女の成長にボスは、彼にしてはめずらしくまた年甲斐も無く大層な興味を抱いたらしい。
 昼間は俺に彼女の世話をするように命じて、自分は夜毎足しげく彼女の元へと通うようになるのにそう時間はかからなかった。
 豪奢な鳥籠を与え、妙なる餌の味を覚えさせ、極彩色の羽で着飾らせれば、雀とても孔雀に化けるものなのだということを、俺は彼女から学んだ。 
 ほんの一時であったにせよ、俺と彼女は兄妹のような、戦友のような、奇妙な親愛の情で結びついていた事もあったのだ。それはいつだってあくまでボスという存在があってこそのもの、だったのだけれど。
 しかしどんなものにも終わりは訪れる。
 ボスの自侭な好奇心がそう長く持続しないのは俺自身が一番良く知っていたが、決定的であったのは彼女がボスの子供を身籠ったことだった。
 結論から言うと彼女は母親になる事が出来なかった。
 ボスには既に戸籍上の妻との間に既に定めた跡取りがおり、これ以上の眷属を増やす気はなかったのである。
 彼女にその事実を告げ、病院に付き添い、手術室に入る寸前で半狂乱になったところを押さえつけてその白い腕に医師が麻酔の針を突き立てるのを手伝ったのも俺だ。
 すっかりからっぽになった腹をかかえて彼女はその頃から狂い始めた。
 ほとんどでたらめなくらいに強い安定剤を大量にアルコールで流し込み、そのせいで何度も自殺未遂騒動を起こし、その度に多忙なボスの代わりに病室に迎えに来る俺を口汚く罵る。
 それは理不尽であったが仕方の無い事だ。
 この世で全くひとりぼっちになってしまった彼女が傷つける事が出来る相手は自分の他には俺しかいなかったのだから。
 なんであの人に会えないのよ。私は彼の妻なのよ。
 それは違う。戸籍上、彼女とボスとの間にはなんのつながりも無い。
 あんたがあの人をわたしから遠ざけているのね、そうなんでしょう。
 これも全く彼女の思い込みに過ぎない。俺にはボスの行動に口を差し挟む権利などない。
 あの人から聞いたわ。あんたなんて野良犬みたいに捨てられてたのをあの人に拾ってもらったんでしょ。色仕掛けであの人に取り入って、男のくせにみっともない声出して、腰振って、この恥知らず。淫売。変態。ずっとあんたのこと気持ち悪いって思ってた。
 今のはやっと本当だ。
 けれど、そんな俺と、彼女との間にどれだけの違いがあるというのだろう。
 考えつく限りの罵詈雑言も底をつき、疲れ果てて啜り泣く彼女は年相応の少女の顔をしていた。
 ねぇ、わたし、あの人に捨てられたら生きていけないのよ。お願い、あの人に会わせて。あなたならできるんでしょう。あの人の側に居るあなたなら。
 ああ、そうか。そういうことか。
 濡れた睫毛の奥からじっとりと重く湿って俺に注がれる視線に、俺はやっと気付いた。
 彼女は俺に嫉妬しているのだ。
 なんだ馬鹿馬鹿しい。どれだけ賢い振りをしても、どれだけ美しく取り繕っても、結局はそんなものか。
 嫉妬、嫉妬、嫉妬...嫉妬だって?
 それはあの人の側に居るために何もかもを手放てきた俺が一番最初に捨てたはずの感情だった。

 

 

 

 

 

 どうしましょう、どうしましょう。
 お勝様にもしものことがあったら、わたし、今度こそクビですよ。上の娘は今年受験だし、家のローンだってまだ15年も残っているというのに。
 病院を手配し、車を呼び、クローゼットの中から適当につかみ取った真っ白なラビットファーのコートに包んだ彼女の身体を抱えて部屋を出る俺の後を追いすがって、小柄な中年男は飽きもせずに同じような泣き言ばかりを繰り返す。
 気のいいだけが取り柄の無能な男。
 彼女を持て余した俺が自分の代わりに彼女の世話係を押し付けた男。
 彼女の癇癪をなだめる術を知らず、金切り声で命じられるままに酒と薬物をこの部屋に運び続けた男。 
 大丈夫ですよ、田中さん。あなたはよく働いてくれました。
 彼女が“こう”なったのは、貴方のせいではない。彼女自身の当然の報いです。
 たとえ、彼女に万が一の事があったとしてもボスは貴方を責めない。誰も貴方を責める事は出来ない。
 低い声でそう告げてやると彼は素直に安堵の表情を浮かべた。
 つまりは彼女が死のうが生きようが、そんなことは彼にとってもどうでもいいのだ。自分が責を問われなければ、それで。
 しかし彼は忠実に自分の役割を果たしたといえよう。
  

 俺が思い描いたその通りに。