月の無い夜だった。
夜半過ぎ、私はふと目が覚めた。
何か外から物音がしたような気がして、隣で眠っている旦那様を起こさぬように褥を後にし、外に面した廊下に立ったその時、突然私の身体は後ろから拘束され素早く声を塞がれた。
一体、何が。
あらゆる可能性を思い浮かべようとした瞬間、首の後ろに当て身を喰らわされ、私の意識は闇に堕ちた。
次に意識を取り戻したとき、身体の自由は奪われていた。とはいっても拘束は後ろ手だけで、縄目が膨らんだ腹を避けてくれていたことに私は少しだけ感謝した。
辺りは闇だ。風が冷たい。草の揺れる音と虫の鳴く声だけが耳をかすめる。
けれどたくさんの人の気配を感じる。私に分かるだけで二十か三十。
そして暗闇に慣れ始めた目に映る、彼らに対峙する一つの影。
私と彼を殺気の塊が取り巻く。
--旦那様!
私は愛しい影の名を叫んだ。
--女を離せ。
距離にして五十歩あまり。よく響く低い声だ。
--よかろう。主人が所望は汝の命のみ。
集団の首領らしき人物が言い、私を押さえつけていた力が緩んだ。
私は腕を振り切って夢中で駆け出した。
--旦那様!
旦那様もこちらに向かって駆けてくる。
--初芽!!
旦那様が叫んだ。
--後ろだ!
振り向くと背後から無数のくないが私たちめがけて飛んでくるのが視界の端に入った。
届く!そう思った一瞬手前で旦那様の腕が私を包み込み、私の身体は反転した。
くないが私を抱いた旦那様の背に吸い込まれる。
骨を砕き、肉を突き破る、にぶい音。
--だんな..さま..?
--無事か、初芽
旦那様の声はほとんど風に流れて聞こえなかった。
どれほどの数か分からないほどのくないが突き刺さって、針山のような旦那様の身体。
うつぶせの姿勢になった旦那様に押し倒されたような格好のまま野に伏して、その重さを一心に受けた私にはどうしたらいいのかもう分からない。
早く刃を抜かなくては。
いいえ、でも、そうしたら血が噴き出してしまう。
だからといってこのままなんて。
ああ、どうしたら。どうしたら。
おそらくは内臓にまで達した刃先のせいで肺が血に溺れ呼吸ができないのだろう。
旦那さまの顔がどんどん歪んでいく。ごぼり、と嫌な音がして旦那様の唇から血の塊が吹き出し、私の胸を汚した。
夜目にも分かるほど私の白い夜着の全身が重く紅に染まって行く。
私は旦那様の身体の下から這いずり出て、そのお顔を膝に乗せ抱き締めた。
--...女のために身を滅ぼすか。
気がつけば、首領が私たちのすぐ側に立って私たちを見下ろしていた。
--お前とは一対一で試合いたかったのだがな。
何の感情も無い目だ。こんな目を旦那様も、お父様も戦場でしていたのだろうか。
こんな、人でなしの目を。
--安心せよ、女。首は無用。これにて証は十分であろう。
首領は振るわれる事の無かった旦那様の刀を拾い上げて言った。
--...そうか、お前。
その目が私に向けられる。
--知っていよう。この男、島左近。関ヶ原にて..
--そんなの知らない!!
私は叫んでいた。
私もこの後、殺されるのかもしれない。
けれど怖さなんて微塵も感じ無かった。
--この人はもう戦う気なんてなかったんだ!
今だって、私を助けに来ただけだったんだ!
私と一緒に、ずっとずっと一緒に暮らすはずだったんだ!!
--この男は多くの人を死に至らしめて来た。そのような者が平穏な生活など。
--だから殺すの!?
殺して、殺されて、また殺して、そんなことを繰り返して!!
この世から誰もいなくなるまで、気の済むまで勝手に殺し合えばいい!!
自分が何を言っているのか、もう支離滅裂だ。
ただ、私は叫んだ。叫び続けずにはいられなかった。
--そんなの私はもうたくさんよ!!
手のひらで包んだ旦那様の唇が何かを形作ろうとしているがもう声にならない。
私たちの周りは血の水たまりでぬかるみ始めている。
指先に伝わる旦那様の体温がどんどん下がって行く。
命が。
命が流れ出てしまう。
強く強く、私は旦那様の頭を抱き締める。
いつもしていたように散らばった長い髪に指を絡め、半分閉じられた瞼に口づけを落とし、鼻先を甘噛みして、唇を舌で辿る。
そうすることで、旦那様が一秒でも長く、少しでも長く留まっていてくれるような、祈りにも似た気持ちで。
無駄と分かっている。
そんなことをしても間に合わないのに。
誰も命を留める事など、できはしないのに。
でも、嫌よ。
死んでは嫌よ。
もう誰も、私をおいて逝かないで。
--お願い、死なないで。
さこん..さこん..さこん..さこん..さこん..さこん..さこん..さこん..さこん...。
私は馬鹿みたいにあの人が好きだった名前を繰り返した。
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