負った傷は思ったより深かった。
 放っておけば馬蹄の下に肉塊となるところを子飼の忍びの者に担ぎ出され、この馴染みの妓楼に運び込まれてから目を覚ますのに七日、上半身を起こすのにさらに十日。やっと起きて杖を使いながら歩けるようになったのは一ヶ月も経った頃の事。
 世の中はすっかり変わっていた。

--殿は..。

 声が出るようになって初めに言った言葉に、忍びは首を横に振った。
 全身の内側を冷水が流れ落ちて行くような感覚。
 覚悟はしていた。
 戦の最後、あれだけ総崩れに崩れて、立て直しがきくはずもない。
 それならせめて殿だけでもと、活路を開くため陣を後にしたところで記憶は止まっている。

--殿は..殿はどのように。

 絞り出すようにして問うと、忍びの者は俺が床に伏していた間の世の中の動きをつぶさに語ってくれた。
 淡々と、己の見解を交える事無く、ただ、事実だけを。
 それはこいつなりの気遣いだったのだろう。
 聞き終わってから、俺はしばらく声を出す事もできなかった。
 けれど心の内は血を吐かんばかりに叫んでいる。

 殿。殿。殿。殿。殿。殿。殿。殿。殿。殿。
 何故、左近を置いてゆかれたのですか。
 何故、連れて行ってはくださらなかったのですか。
 何故。何故。何故。何故。何故。何故。何故。何故。何故。何故。

 それから、思った。
 これは、この刺すような孤独は、この身を焼くような後悔は、殿をお守りできなかった力なき己への罰なのだと。
 その罪に抱かれて、俺は一生、生きていく。

 杖を頼りに、まだ思うように動かぬ足を引きずって夕闇の中を六条河原へと向かう。
 こんなことをしてもどうにもならない。分かっている。
 けれど会いたかった。どんな姿になっても一目、会いたかった。
 既に闇に包まれた河原に人影はない。
 深編み笠の間、竹の柵の向こう、簡素に作られた台の上にいくつかの首と一緒に主人は居た。
 命を失ってから随分と経っているはずなのに、首はまるでいまにも言葉を吐き出しそうなほど、生前の怜悧な美貌をよく留め腐乱した様子も無い。
 その表情が酷く穏やかに見えるのは、現世のしがらみから解き放たれたせいか、薄く閉じられた瞼もつかの間の眠りを眠っているように見え、柔らかな髪が風に煽られてさらさらと揺れる様はまるでそこに意思があるように感じられた。
 俺は手を合わす事すら忘れ、変わり果てた主人の姿にしばし見入った。
 この首を我が物にしてしまいたい、そんな考えすら浮かんでは消え、ひたすらその場に立ち尽くしていた。
 どれだけ時間が経っただろう。ふと、河原の砂利を踏みしめるかすかな音が聞こえ、俺は我を取り戻した。
 近づいてくる小さな白い影。
 この時分に独り忍んで参るなど晒された首の縁者であろうか。
 笠の中から垣間見れば年の頃は14、5の少女。妾、という年ではあるまいし、大方どこぞの息女だったのだろうか。今は身寄りがあるとも思えず、これが戦の習いとはいえ、幼い身の上で哀れな事だ。
 その時、ふっと河風が吹いて、少女が頭からかぶっていた衣がはためいた。
 そこに現れた顔に、俺は凍り付いた。
 この世に幽鬼というものがいるのならば、これを人はそう呼ぶのかもしれない。
 なぜなら彼女の顔は、今は首となった人、かつての愛しい人、激しい思いに身を焦がしたその相手のものだったのだから。
 ただ、違うのは彼女の顔に残る、戦を知らない者の無垢なあどけなさと、夜風に吹かれて赤く染まった頬。それはまぎれもなく彼女が生きている証だった。

--殿。

 辺りも構わず、俺は惚けた声で呟いた。
 声が届いたのか少女はこちらに気付き、少し驚いた顔でこちらを見つめていたが、軽く黙礼を返すと逃げるように遠ざかっていった。
 俺はなす術も無く、しばらく幻の消えた闇を見つめていた。