お父さまの消息--それはある程度予測はしていたが最悪のものだった--が分かった頃、遊郭での暮らしにも随分慣れて来た。
 酒に酔ったお客の求めるままに足を開く。大抵の男はそれで満足する。
 たまに、お前は愛想が無い、笑え、などと無理な注文をつける男もいたがそんな奴には恥ずかしいのだとかなんとか言って体臭の濃い胸に顔を埋めてやれば軽くあしらえた。
 ここでの暮らしは恐ろしい。慣れれば慣れるほど、心が狂っていく。
 母さまがいて、乳母や侍女達がいて、たまに渡ってくる父さまに甘えて、そんなお城での生活が遠い夢のように感じられ、果たして本当にあった出来事だったのかさえ分からなくなってくる。それを恐ろしい、と思う心さえいつかは消え去ってしまうのだろうか。
 郭の店先で先輩女郎たちの下駄を洗いながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
 

--お大尽、どうだい、遊んで行かないかい。
 まだ日も高いのに、女将の猫なで声が表から聞こえてくる。大方、羽振りの良さそうな客が前を通ったのだろう。
 

 客は立ち止まり、私を差して女将に何か言っているようだった。
 

--ああ、あの子はだめだよ。どこのお姫様だったか知らないが愛想の欠片もなくってさ。
 ちょっとも笑やしないし、つまらないよ。
 それよりさ、もっと具合のいい妓が...。
 

 言い募る女将を押しのけて男は店の奥まで入って来た。
 

--お前、名は?
 

 低い、心地の良い声が頭上から降り注いで、私は頭をあげた。
 深編み笠の中の顔。かすかに見覚えがある。いつか六条河原で見かけた、あの男の人だ。
 男の人は私の顔をじっと、穴の空く程見つめた。
 その眼差しには懐かしい物を見るような、無くしていた大切な宝物にやっと出逢ったような、そんな色が含まれていたように思う。
 どうして、ほとんど初めて会う、女郎の私をそんな目で見るのだろう。
 その時は、分からなかったけれど。
 

--名は?
 

 男の人は柔らかな声でもう一度きいた。
 

--“あげは”。
--違う。お前の本当の名だ。

 ここでは。こんな場所では本当の名前など言ってはいけないのだけれど。
 増して、私のこの身の上。残党狩りの役人だったら取り返しもつかないのだけれど。
 

--...初芽。

 この人になら大丈夫、何故だかそんな予感がしたから。
 

--はつめ。

 大きな男の人は噛み締めるように私の名前を呼んだ。
 

--ずっとお前を捜していた。
  女将!この妓をもらうぞ!
 

 長い腕が伸びて来て、掴まれる、と思った瞬間、私の身体はその腕の中に抱きしめられて宙に浮いていた。
 私の手から取り落ちた下駄が土間の上でからん、と乾いた音を立てた。
 

 

  

   
 そのまま、男の人は私の身体を抱き上げると二階の私の部屋へと連れて行ってくれた。
 笠をとったその人の長い髪は所々に白い物が混じっていて、身体だって随分がっしりとしているけれど骨張っていて、その皮膚の乾いた感触は彼の重ねて来た年齢を隠せずに居る。
 そんな人が渇望していた何かを見つけたように私を貪ろうとしている。
 まるで子供がお菓子を口一杯に詰め込むように、乾いた喉を水で潤すように何も言わずに、その人は私に触れた。
 唇に舌を這わされるのも、着ている物を一枚一枚引きはがされるもの。
 幾度もくり返して来て、慣れ切っている行為のはずなのにこの人の前だとどうして恥ずかしいのだろう。
 胸が早鐘を打つ。
 耳の奥がぼうっとなる。
 私が、私でなくなってしまう。
 もしかしたら渇望していたのは私の方かもしれない。隠していた寂しさも不安も全部、さらけだして私は縋った。
 その人の指や舌が私の身体を這うその跡から花が咲くみたい。
 初めて味わうそれがとても快くて私はからからと笑い声を上げていた。
 襖の隙間から覗き見ていた女将や女郎仲間達が驚くほど、私は笑っていたのだ。
 こんなふうにほとんど初めて会った男に抱かれて悦ぶ私を、首になったお父さまは卑しいと叱るだろうか。
 叱るなら叱ればいい。
 首になんて何が出来るものか。
 だって貴方は死んで、私たちは生きている。
 死者は無力だ。
 

 そうでしょう、お父さま。