設定等はこのお話から微妙に続いています
縁側に座って裏山にただ一本ある山桜を眺めるひとときが、たまきは好きだった。
山の桜は里のものとは違い花の色が濃く勢いがある。
それを眺めていると励まされているような気持ちになった。
たまきの中には新しい命が宿っている。
夫である三成の子だ。
それが分かった時には随分戸惑いもしたし重い悪阻に苦しめられもしたけれど、ようやく身体も落ち着いて産み月を待つばかりの今となっては、まだ見ぬ我が子への想いは日毎に募る。
「たまき、そんなところにいては身体が冷える。中に入りなさい。」
しわがれた声に顔を上げると、そこには父の姿があった。
めずらしく父は素面のようだった。
酒の入らない父は血色の悪いせいもあって年よりずっと老いて見える。
満足に動かすことの出来ない身体からは筋肉が落ちて、手足などは枯れ枝のように細っている。
それでも眼光だけは未だ鋭く、薄暗い部屋の中からたまきを咎める視線には鬼と呼ばれた頃の名残があった。
「桜を見ていたの。
この子もお花が好きで、こうしているとお腹を蹴って喜ぶの。
きっとやさしい子なんだわ。」
たまきが微笑んでみせると、父は仕方が無いというふうに肩をすくめて、たまきの側に歩み寄りそこに腰を下ろした。
「ほら、ね。」
たまきはその手をとって自分の腹に触れさせる。
毬のように張りつめた感触に左近は目を細め、少しの間何事かを思案していたようだったがやがてゆっくりと口を開いた。
「たまき、少し昔の話をしよう。」
ますます珍しいとたまきは思った。
父が自分からそんなことを言い出すなんて、特にあの戦が終わってからは一度もなかったことだ。
もしかすると、流石の鬼の左近も新しい生命の前に少し感傷的になっているのかもしれない。
「俺には心からお慕い申し上げるお人がいた。
ずっと昔、お前が生まれるよりもっと昔のことだ。」
昨日みた夢を語るように左近は話し始める。
「それはわたしの知っている人?」
「そうだ、お前のよく知る人だ。」
“わたしのお母さま?”
そんなふうに笑って聞けるほど、たまきはもう子どもではない。
父の想い人が母ではないことくらい直感的に分かってしまう。
左近がたまきの母について話していることなど、たまきは一度も聞いたことがない。
それどころか物心つくまで、人にはみな母親というものがいることなど知らなかったくらいだ。
それを知ってからも、特別に寂しいとは感じなかった。
父によって施される剣術の稽古と兵学の習得に費やされる少女の日々には感傷の入り込む余地などなかったから。
けれど、自分が母となるとわかってからは顔も知らぬ母のことをよく考える。
おそらく生きてはいまい。
生きていたとして生涯会うことはないのだから、それは死んでいるのと同じだ。
どちらにせよ母にとって、まだ乳飲み子だった我が子と別れるのはどれほど辛かったことだろう。
我が身に置き換えてみれば身体を引き裂かれるような思いがする。
「その人への想いを遂げる為には、俺は身分も、力も、何もかもが足りなかった。
いいや、俺の想いなどわかってもらえなくてもいい。
ただ、ずっと側に居たいと思った。」
「父さまは本当にその方が好きだったんだね。」
ゆっくりと頷いた父に、たまきはその想いがいまだ途絶えていないことを知る。
「俺はせめてその人との間に子が欲しいと願った。
俺とその人の、ふたりの血を引く子どもが。
俺はいつ戦場に果てるとも知れない。
こんな世の中だ。その人にだって何があるかわからない。
もし俺たちがふたり共にこの世からいなくなっても、俺たちの血を引く人間がいればそれは俺たちの生きた証しになる。
それがとうてい叶うはずの無い望みだとわかってはいても、俺はずっと諦めきれなかった。
だが、やっと---。」
たまきに触れていた手にもう一方の手を重ね、そっと額を寄せた左近はなんとも満ち足りた顔で微笑んだ。
「やっと、俺の望みが叶う。
こんな姿になって恥をさらしてでも、生きていてよかったと心から思うよ。
たまき、どうか無事にお子を生んでくれ。
殿のお子を。
この子はきっと殿によく似ているだろう。」
まるで母親になるのが自分であるかのように、左近は何度もたまきの腹を撫でる。
そのかさついた掌が触れる度に全身から流れ出るように熱が引いていくのは、冷たい春風のせいばかりではない。
--ああ、この人は。
我が父であるはずのその人の顔を見下ろしながら、たまきは絶望に打ちのめされていた。
--この人は、わたしを見てはない。
こんなに長く、こんなに近くにいて、こんなに触れ合ってきたはずなのに。
わたしは一体なにを見ていたのだろう。
いいや、違う。わたしは知っていた。
知っていたのに気づかないふりをしていた。
この人が見ていたのはわたしじゃない。
わたしの母さまでもない。
そのずっと先にある、恋の顛末。
そしてそれはもうすぐ成就する。
腹の中で赤子が動いている。今日は特別に活発だ。
部屋の奥から三成の声が聞こえる。
たまきではなく左近を呼んでいるようだった。
おそらく酒の相手を捜しているのだろう。
左近は名残惜しそうに手を離すとたまきを残して行ってしまった。
縁側から立ち上がれずに居るたまきの中で赤子がいっそう強く腹を蹴った。
それを我が身ごと抱き締めて、たまきは桜を見上げる。
これはわたしの子だ。
わたしだけの子だ。
誰にも渡さない。
もしわたしからこの若葉を奪おうとする者がいれば、命を賭してでも守ってみせる。
例えばそれが実の父であったとしても。
里の桜の花は若葉の芽吹くのを待たずに散ってしまう。
それが美しいのだという人もいるけれど、花だけの木はどこかいびつで寂しげに見える。
だからたまきは花と葉が寄り添って咲くこの山の桜が好きだった。
自らの力で生きるたくましい姿に幾度も勇気づけられた。
今、彼女はその花に願う。
どうか我と我が子守り賜え。
そうして、わたしに、我が子の為に鬼となる勇気を。
どうか。
どうか。
わたしに。
里桜はまんまとソメイヨシノをイメージしていたのですが、戦国にはないですよね
花が先に出る桜って当時はあったのかしら
問題はそこではなく、
好きな人と結ばれて、その人との間に子どもができて、 小さい頃から男手一つで育ててくれた父親もおじいちゃんになることを照れつつも喜んでくれている ...はずなのになんでこんなことに?
これを殿たまと言い切ってみる
肉体的事実だけを見れば間違ってはいない
貞本エヴァの最新刊を読んでいたらあんな(こんな)父親もありなんだなぁと思いました
覚悟を決めた女の子というのはぐずぐずしている男の子より何倍も強いものなので、 たまきもこの後は心機一転シングルマザーとしてがんばっていってくれると思います
とはいえ、
シンママ(ageha語)になる道を選ばなかった場合の最悪のエンディングはこちら
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