わたしの人生はどこから狂ったのだろうかと考えてみる。

 夜明けに差し伸べられた手を取ったとき、だろうか。
 父やその主人に従って戦場について行くと決めたとき、だろうか。
 それとも、もっとずっと前、島左近の娘として生まれたとき、なのだろうか。

 ならばいっそ、わたしは生まれてこなければよかったということになる。

 それがとても恐ろしい結論に思えて、たまきは考えることをやめた。

 

 

 

 手纏の端無きが如し

 

 

 

 関ヶ原の戦の後しばらくの間、たまきと三成は当て所無い旅を続けていた。
 世の中にはあの戦で主家を失った牢人者で溢れかえっていたし、そもそも身分を捨ててただの一個の人間になった三成にまともな仕官先などありはしない。
 訪ね行く旧知の者たちも結果的には天下の主人となった徳川にいらぬ嫌疑をかけられては堪らぬと、彼等の姿を見るなり幾ばくかの金子と食べ物を投げ与えると犬の仔でも払うように追い散らした。
 持ち出した金子にも限りがある。
 それでも所持していた武具や着物を切り売りしなんとかたどり着いた先で、たまきは思いがけず父に再会する。
 生きてこの世で会う事は二度とあるまいと思っていた父はしかし、死を免れる代償に身体の自由と光を失っていた。
 あれほど強健であった父の変わり果てた姿を目の当たりにして、たまきは今度は自分が父を一生守り支えて行くと誓った。
 

“一生”
  

 終わりのないその言葉の重さも知らぬ、彼女が。

 

 

 

 満足に身動きの取れぬ左近の為に、たまきと三成は人里離れた山の中に小さな家を手に入れた。
 長い間人の住んだ気配は無く、壁はところどころ剥がれ落ちて仰向けば天井の藁の隙間からは空が覗き見れる。
 少し大きな風が吹けば吹き飛ばされそうなほどに家中が揺れ、雨が続けば床が湖のようになった。
 大阪にいたころに暮らしていた石田屋敷とて随分質素な作りだったが、その厩でもこれほど酷くはない。
 それでもたまきは幸せだと思った。
 父と、そして今は彼女の夫となった人と共に暮らすそこは、彼女が初めて手に入れたまぎれも無い自分の家であったから。

 

 

 

 旅を終え一所に留まる事を選んだ彼等は、それを維持し続けるための糧を得る必要に迫られる。
 これまでのように木陰に眠り、畑の作物を失敬したり野の獣を捕って食事とするわけにはいかない。
 たまきにしてみれば父親の身体が少しでも元の状態に近付くように滋養になるものを食べさせ、薬なども買ってやりたいとも思う。
 それにはどうしても金子がいる。
 はじめのうちは三成が、自分が街に下りて働くと言って出かけて行った。
 しかし文吏としては優秀な彼も身分を隠したままでは日雇いの人夫くらいしか奉公先は見つからない。
 そうしてやっと始めたそれも、こうも貧弱では使い物にならぬとすぐに帰されて来てしまう。

「ごめんな、たま。次はしっかりやるよ。」

 着物の土埃を払いながら屈託なく笑う夫に、たまきもついつい引き込まれて呆れたふうに肩を竦めてみせる。

「まったく、もう、殿は仕方ないなぁ。」

 かつてのように軽い言葉で苦笑い、しかしそんなことが三月も続くうちに三成は家で過ごす時間が長くなり、仕舞いには自分が家に居てかつての家老の面倒をみると言い出した。

「誰かが左近の側に居てやらないと危ないだろう?」

 それはすなわち、食い扶持を稼ぎ出してくる役目はたまきに任せるという意味合いであった。
 こうして父親と夫と、二人の男の暮らしが彼女の薄い双肩に伸しかかった。

 

 

 

 物心つく前からろくに学問もせず、女ながらに刀ばかりを握らされていた。
 たしなみとして身につけるべき作法はおろか、舞や音曲のひとつもたまきは知らない。
 代わりに彼女はひたすらに実の父親によって人の命を奪う術を叩き込まれ、後の夫となる男の為に行使した。
 彼女に出来うる事は今も昔もそれしかない。
 幸か不幸か、若くてうつくしい少女の姿というものはそれを成すのにとても役立った。
 町外れの盛り場で、たむろしているごろつきたちに声をかければ仕事はいくらでもあった。
 おいはぎ、暗殺、強盗の類いまで、たまきは何でもした。
 身も知らぬ他人の命で得た金子は食い物や酒に姿を変えて父と夫の腹の中に消えた。
 彼等はたまきがどこからそのような多額の金子を得てくるのか追求もせず、さも当然のようにそれらを喰らい呑み干し、さらには昔屋敷で口にしていたようなもっと上等なものを欲しがった。
 要求にはきりがなく、たまきは休む間もなく殺し続けた。
 男も、女も、父親と同じような衰えた老人も、夫と同じような身なりの武士も、自分と同じような年格好の娘も、それこそのべつ幕無しに。
 そんな彼女を鬼のような娘だとごろつき連中は嗤う。
 鬼のような、ではない、とたまきは思う。
 わたしは鬼の娘なのだ。
 鬼の子はまぎれもなく鬼そのものなのだ。

 

 

 

 それでもある時、両の指先が皹(あかぎれ)るほどに洗っても落ちない血の匂いがどうしようもなく辛くなって、ひとつ布団の中にいた夫に尋ねてみた事がある。

「ねえ、殿、わたしはどうして生まれて来たの?」

 昔の呼び名で問われた彼は明るい笑い声と共にこう答えた。

「その答えは自分で探すものだよ、たま。」

 その時になって、やっと彼女は気づいた。

--わたしはこの人に一度だって正しく名を呼ばれた事が無い。

 最初はいちいち怒っていたのが、いつの間にかわたしはわたしのものではない名を受入れた。
 あの時に、わたしは諦めていたのだ。
 この男に何かを望むということを。

 それなのに、どうして。

 頭の芯が重く痛むのだろう。
 胸が激しく鼓動を刻むのだろう。
 喉の奥がじりじりとひりつくのだろう。
 呼吸をする事がこんなに苦しいのだろう。

 どうして、まだ涙が出るのだろう。

 彼女が声を殺して泣くすぐ隣で夫は寝息を立て始めていた。

 約束の報酬を受け取って彼女は家路を辿る。
 陽の暮れ始めた通りの角で、蝶のように着飾った娘たちとすれ違う。
 歌うような声で笑い合う彼女たちの、仄甘い残り香がたまきの鼻先をくすぐる。
 どこかで祭りでもあるのだろうか。
 身につけた着物の華やかさを除けば、見た目にはたいして変わりないたまきと娘たち。
 けれど袖の触れ合うその距離の、なんと遠いことか。
 わたしはもうあちら側には行けない。

--あの娘たちは想いも寄らないだろうな、わたしがたったいま、人を殺してきたなんて。

 疲労に輪をかけて重さを増した足を引きずりたまきは町外れまで来ると、芦の多いしげる川辺で腰を下ろした。

 このまま帰らなければ、家で待つ彼等はどうするだろう。
 わたしを探しに来るだろうか。
 

 ...わたしを?
 それともわたしが持ち帰るはずのこの手の中の金子を?

 とめどなく思いを巡らすうちに辺りに薄闇が這い始め頬を切る風は冷たさを増すが、人の近付く気配はない。
 早く立ち上がって歩き、家に戻らなければならない。
 父と夫が待つ、あの家に。
 わかりきったことなのに身体が動かない。
 指一本動かすことさえひどくおっくうで、たまきは膝を抱えたままじっと真っ黒な川面を見つめていた。
 どれほどの時間、そうしていたのだろう。
 ふいに平らなはずの水面にちいさな泡のようなものが浮かぶのが見えた。
 それはみるみる間に膨らみ、人の形を取りはじめる。
 ひとつだけではない。
 いくつもいくつも。
 何十も何百も何千も。
 訳もわからず眼前の光景に吸い寄せられているたまきを、川の中から無数の頭が見つめ返す。
 恐ろしさに喉が引きつり、叫び声をあげることができない。
 ゆっくりと緩慢な動作で彼等は水面から這い上がり、一斉に溶けかかった腕をのばして岸辺と近付いてくる。

--お前の場所はそこではない。

 腹の奥に直接響く、冷たい声。

--おいで、おいで。こちらへおいで。

 腰を抜かして後ずさるたまきの足首を枯れた指が鷲掴む。
 それはほんの一瞬であったはずなのに、触れられた箇所の皮膚が凍傷を得たようにじんじんと痛み、たまきはやっと獣のような叫び声を発して身体を跳ねさせた。
 必死に脚をばたつかせて手を振りほどくと、後ろも振り返らずに一目散にたまきは駆けた。

 あれは死者の群れだ。
 わたしが殺した人達だ。
 わたしを連れに来たんだ。

 逃げても、逃げても、彼等は何処までも追ってくるような気がして、後ろを振り返ることもできずに走り続ける。
 やっと家の明かりが見える峠まで来た時に安堵のために脚がもつれ、たまきはその場に倒れ込んだ。
 絶え絶えの息の下で、たまきはふと自分に向かって腕を伸ばして来た亡者の中に産褥の床で死んだと聞かされた母親の姿を見た気がしたが、その時には確かに自分は赤子であったはずで母の顔を自分が覚えているのもおかしなことだと思った。

 

 

 

 僅かに残された力で歩みを進め、たどり着いた我が家の戸に手をかける。
 立て付けが悪く悲鳴のような音をたてる戸を両手で引き開けて、中に脚を踏み入れる。

「遅かったじゃないか、たま。」

 土間から続く真っ暗な炉端では二つの目が光ってこちらを見ている。

「すっかり待ちくたびれて、腹が減ってしまったよ。」

 そう言いながら夫は父の杯に酒を注いでいた瓶子から、自分は直接中身を煽った。
 すっかり熾き火になった囲炉裏以外、灯の無い部屋の中をよくよく見ればいくつも空になった酒器が転がっている。
 治りきらぬ父の傷に障るから、酒は控えるようにあれほど言ったはずなのに。
 なにもかもがばかばかしい。
 いっそあのまま、亡者どもに飲まれてしまった方が良かったのではないか。
 全身から血の引くような心持ちで佇むたまきに、目の見えぬ父は気づいているのかいないのか、声ひとつ発さず杯の酒を舐めるようにして飲んでいる。
 時折、父が喉をつまらせて咳き込む度に、右の額から頬にかけて刻まれた古傷が薄闇の中で生き物のように蠢いて父の代わりにたまきに語りかける。

--お前の居場所はここだ。
 ここよりほかに何処にも逃げ場などありはしない。
 お前はここにいて、罪を償え。

 幼い日に自らが父に与えた傷跡に責められながらたまきは、わたしの人生はどこから狂ったのだろうかと考えてみる。

 夜明けに差し伸べられた手を取ったとき、だろうか。
 父やその主人に従って戦場について行くと決めたとき、だろうか。
 それとも、もっとずっと前、島左近の娘として生まれたとき、なのだろうか。

 答えなどでるはずのないその問いを、とめどなく、手纏の端無きが如くに。

〈了〉



  

  

 
   

     


こういうのを書くから友達ができないとよく言われますが気にしてません

とても面倒臭い自分語りが続く後書き(別ウィンドがひらきます)