【仔猫の晩餐】
テーブル一面に並べられた晩餐の皿。
微かに漂うカサブランカの香り。
熱帯夜の外気を完璧に遮断したエアコンディションは気温湿度ともに実に快適。
それなのにひっきりなしに冷たい汗が額を伝ってはシャツの襟元に吸い込まれていく。
彼女はそれに気づくと、真っ白なハンカチを取り出して年老いた夫のくすんだ肌をそっと拭って言った。
「すごいでしょう。全部わたしがつくりましたのよ。
テリーヌも、スープも、ミートパイも、メインのお肉のローストも。
久しぶりにお帰りになるあなたの為に、心を込めて。
きちんと全部食べてくださいね。」
満足げにテーブルを見渡しにこりと微笑んでみせて、彼女は手始めに前菜を切り分けて夫の皿に乗せる。
家事などというものとは一切無縁に育ったその手つきはとても不器用で、桃色のテリーヌは彼の元に届くまでに幾度もテーブルクロスの上を転がり、仕舞いにはぐちゃぐちゃに潰れて皿に小高く盛り上げられた。
「さあ。」
彼女はテーブルの端にしがみついたまま凍り付いたようになっている夫の手を取り、銀のナイフとフォークを握らせる。
「あれはどこへ行った?」
傍らに立つ彼女に、顔を向ける事もできないまま発せられた声はその恰幅の良い体格とは対照的にみっともないほど掠れて今にも消え入りそうであった。
「...なんのことをおっしゃっているの?」
「お前の世話を任せるために、ここに残していった儂の秘書だ。」
グラスにワインを用意する手を止めて、彼女はため息をついてみせた。
「ああ、あの子。
かわいらしい子でしたわね。
男の子のくせにまつげが長くて、肌がとっても白いの。
女の私でさえ嫉妬してしまうほど奇麗な子。
わたし、貴方と出逢う前にあの子と知り合っていたのなら、もしかして恋をしていたかもしれませんわ。」
自らの戯言を嘲るように、小鳥のような声をたてて彼女は笑ってみせた。
それからいまだナイフの上で止まったままの夫の手に目をやって、彼の背後に歩んで皺の溜まった指に自らの手を重ねる。
絆創膏も包帯も、すべて取り払った彼女のそれはところどころに散らばる細かな傷がまだ痛々しく紅を滲ませ、中でも特別、甲に瀕死の犬がその爪で最期に刻んだ掻き傷は深く薄桃の肉の色を垣間見せていた。
「でも、大丈夫。
わたしたちは貴方のもの。
わたしもあの子も、わたしたちはこの世でただひとり貴方だけのもの。」
耳元に囁いて彼女は自らフォークを取り上げ、テリーヌの塊をひとかけら掬って白い髭に囲まれた口元に運ぶ。
気づいていたんでしょう?
あの子がわたしを見る目
それでわたしにあの子を預けたんでしょう?
あなたはわたしたちを試したんだわ
でもわたしたちは決して貴方を裏切らなかった
だから、お願い
貴方もわたしたちを裏切らないで
わたしたちを、ずっとずっと、あなたの側に
あれほど流れていた汗は嘘のように止まっていた。
代わりに見開いた目から涙がとめどなく吹きこぼれて頬を濡らす。
それが後悔なのか恐怖なのか、老いた彼にはわからない。
ただ、染みのひとつもなく無垢に美しかった彼女の手をこんなにも傷だらけにしたのは、まぎれも無く自分なのだろうと彼は思っている。
あの子がわたしを見る目云々は完全な奥様の妄想でもいいし、本当に恋でもいい
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