【仔犬のスープ】 

 

スープをおいしくつくるコツ

 
できるだけ新鮮な材料をえらぶこと
下ごしらえをしっかりすること
ていねいにあくをとりながら時間をかけて煮込むこと
 
 
  

 

 

 ひとりカウンターに座り出された自家製ジンジャーエールのグラスに伸ばされたその女の指は両手共に五指が絆創膏まみれで、コーヒー豆を焙煎していた店の主人の目は自然とそこに引きつけられた。
 
「これ、おかしいでしょう?」
 
 視線に気づいた女、女性と呼ぶにはいささか幼い、けれど少女とも言い切れぬ微妙な年頃の彼女ははにかみながら両手を広げてみせた。
 
「お恥ずかしい話ですけれど、わたし、いままでお料理というものをしたことがなかったのです。
 わたしの肌が荒れたり、爪が欠けてしまうのを夫はとても嫌がるものですから。
 けれど、やってみれば思ったより楽しいものね。
 しばらく留守にしていた夫が帰ってくるのでなにか美味しいものをと思いまして、夢中になっていたら指をこんなにしてしまって。
 夫は怒るかもしれませんけれど。」
 
 掌を何度も返して自分でもまじまじと見つめる仕草はあどけなく、主人はそれを微笑ましく見つめる。
 
「旦那様の為に作られたのでしたら、きっと叱ったりなどなさいませんよ。
もし叱られたとしても、それは旦那様が貴女を心配されている証でしょう。」
 
--それで、はじめてのお料理はなにを作られたのです?
 

 主人の問いに彼女は満足げに微笑んで答えた。
 
「仔犬のスープよ。」
 
  
  

 
 
 ある日、彼女は夫の飼っている犬の面倒をみることになった。
 その犬は以前から夫が可愛がっているもので、いつまでたっても仔犬のくせに図体ばかりが大きくいつだって夫のまわりに付きまとっている。
 それだから彼女は嫉妬した。
 彼女などまるで視界に映らぬがごとく夫にばかり尻尾を振るその犬に、なのか。
 彼女というものがありながらその犬を捨てない夫に、なのか。
 おそらくはその両方に。
 そして嫉妬のはけ口を求めていた彼女は、夫が少し長い期間彼のプライベートな理由から彼女の元を訪れる事ができなくなった時こんなわがままをいってみた。

 
“わたし、ひとりでお留守番をするなんてとても寂しくて耐えられないわ。
 あなたがこちらに来られないと言うのなら、せめてあなたの可愛がっていらっしゃるその犬をわたしに貸してくださらない?”

 
 まるで夫を試すような申し出ではあったけれど、彼女の年嵩の夫はこの不釣り合いなほどに若い妻に対して日頃から負い目もあったので、渋りながらもその犬を彼女のもとに置いていく事にした。
 この時にはまだ、彼女に犬に対して深い考えがあった訳ではない。
 ふたりきりになってみて、この犬が彼女を主人と認め懐くのならばそれでよし。
 それが出来ないならばほんの少しきつい折檻を加えて身の程を分からせてやればよい。
 しかしその犬は彼女が考えていた以上に、きかん気が強く主人でない彼女に頑に心をひらこうとしない。
 それどころか、いくら打っても叩いても、素裸にして熱湯を浴びせかけても、手足の爪を全部ペンチで剥いでしまってもうめき声ひとつ挙げようとはしなかった。
 ついに癇癪をおこしたのは彼女の方で、金切り声をあげて手近にあった置き時計を掴んで投げつけ、それが運の悪いことに犬のこめかみの辺りを直撃してそれきり彼は動かなくなってしまったのだった。
 仔犬のもの言わぬ身体を前にして流石に彼女は驚き、後悔するよりも先に途方に暮れた。
 不慮の事とはいえ、犬を死なせてしまったことがわかったら流石に夫も怒るだろう。
 全身痣と傷に塗れたこの姿を見られたら、いくら故意ではなかったと言っても信じてもらえないかも知れない。
 もしかしたらわたしのことを嫌いになってしまうかも。
 そんなのは困る。
 わたしはあの人がいなければ一日だって生きてはいられないのだから。
 困ったわ、困ったわ。どうしましょう。
 考え抜いた末に、愚かな彼女は思いついた。
 もし事実がバレても夫に怒られない方法。
 正確には夫が彼女を怒ることができなくなってしまう方法。
 ついでに、邪魔な犬の死骸を奇麗に片付けてしまう方法。
 なんてすばらしい思いつきだろう。
 それに、これならば死んだ犬もわたしを怨まないだろう。
 いいえ感謝さえするかもしれない。
 だって彼はこれからずっとご主人様と一緒に生き続ける事が出来るのだ。
 愛するその人の血肉となって。
 

 彼女は、死んだ犬でスープを作り、それを夫に振る舞う事にした。
  
  
  

 
 
 材料の下ごしらえをするのには随分時間がかかった。
 慣れない刃物を使う作業は彼女の指先を幾度も傷つけ、慣れない重労働に彼女の脆弱な筋肉は悲鳴をあげた。
 しかし、犬の、夫のものとはまるで違う青年らしいしなやかな筋肉やきめの細かい肌に初めて直接触れ、それらをひとつひとつきれいに切り分けていくのは彼女にとって官能的な作業だった。
 さらには、彼女の作ったスープを食べる夫の喜ぶ顔を想像すれば、心は弾みこそすれ何の苦も感じない。
 わたしたちがふたりして一緒にあの人を楽しませることができるなんて、これはとても素敵なことだわ。
 永遠に失われた今になってやっと彼女はこの哀れな犬を許し、受入れ、連帯感に似たものさえ感じるに至ったのだった。

  
  

 
 
「もうすぐ夫が帰って来ますの。
 わたし、そろそろ戻ってテーブルの準備をしなくては。」
 
 すっかりグラスを空にした彼女は腕時計を覗き込んで帰り支度を始める。
 
「ごちそうさまでした。今度はこちらのお料理もいただいてみたいわ。」
 
 代金をカウンターに置き、足取りも軽く出て行く彼女を見送りながら主人は考えてみる。
 主人の記憶では彼女がこの界隈を犬を連れて歩いている姿など一度もみたことがない。
 付け加えるのならば、彼女が一方的に夫と呼ぶ老年の紳士、その人が連れている姿さえも、である。

 

 

 
 
 しかし--。
 
 しかし、不釣り合いなふたりが連れ立って歩くその後ろを、付かず離れず見守るように付き従う若い男の姿ならば覚えがある。
 その男を見たとき、主人は彼をまるで忠実な番犬のようだともお預けを喰らった猟犬のようだとも思ったものだ。
 そういえば、彼の姿をしばらく見かけていないが。
 
   
  

 
 
スープをおいしくつくるコツ

 
できるだけ新鮮な材料をえらぶこと
下ごしらえをしっかりすること
ていねいにあくをとりながら時間をかけて煮込むこと

  

食べる人のことを想いながら愛情込めてじっくりと
そうすればどんなお料理もきっとおいしくできますよ
 

 

  

   

 

  

  

   

 

  

ゲストは無双カフェ現パロのほうの大谷(パンツをはかないほうの大谷)