見舞いの花のひとつもない殺風景な病室で彼女は静かにベッドに横たわっていた。
 いつも小リスのようにくるくると表情を変える大きくて丸い瞳は今は閉じられていたが、眠っているわけではなく、俺が小さく名を呼ぶとうっすらと瞼を持ち上げ、こちらに視線を向ける。
 容態は随分と落ち着いているように見えた。
 ここには彼女を狂わすものは何も無い。
 心を蝕む薬も、身を焼くアルコールも、そうしてあの人も。
 お迎えに上がりました。
 それだけを短く告げると、彼女は静かに頷いた。
 可哀想なほどに賢い彼女は、俺がこんな時間に一人でやってきた意味を理解しているようだった。
 支度をします。少しだけ、時間をください。
 俺は部屋を出てドアのすぐ脇で彼女の準備が整うのを待つ。
 僅かに漏れる衣擦れと、押し殺した嗚咽が聞こえなくなるまで。
 彼女の泣く声を聞いたのはこれが初めてのことだった。
  

 

 

 

 

 真夜中のロビーには誰もいない。
 非常口を示す緑のランプだけが遠くにぼんやりと浮かんで見える。
 昼間は看護婦や診察を待つ人々が忙しなく行き来する廊下には影一つなく、リノリウムの床を歩く俺たちの足音だけがやけに大きく耳に響いた。
 いつだったかもこんなふうに、俺たちはふたりで歩いた。
 あの時の俺にはできなかったこと。
 すぐ後ろを歩く彼女に背をむけたまま差し出した手を、彼女は少し戸惑ってからそれでも強く握り返して、俺たちは今はじめて繋がっている。
 もっと早くこうしていれば何かが変わっていたのだろうか。
 あの人と、彼女と、俺と、生まれなかった子供と。
 別の未来もあったのだろうか。

 

 

 

 

 

 彼女を乗せた車は街外れの埠頭を目指している。
 彼女の人でなしの父親が見つかったその同じ場所。
 わたしのことを哀れとお思いでしょうね。
 ぽつりと呟かれた言葉に、俺はフロントミラー越しに後部座席の彼女を見た。
 わたしは本当にあの方を愛していました。
 わたしのこの世で最初で最期の恋でした。
 何故、そんなことを、俺に。
 窓ガラスに預けていた頭を起こし、小さな鏡の中の彼女はまっすぐに俺を見つめていた。
 貴方だけには覚えておいてほしいの。
 あの人がわたしを忘れても。
 あの人の側に居る貴方だけには、わたしのことを--。
 いつのまにか車窓の風景は消え、ヘッドランプが照らし出すのは濃い霧ばかり。
 進む先も見えない道を俺たちは走り続けている。

 

 

 fin.