積まれた書類の山をようやく片付けて、気分転換にコーヒーでも買いに出ようと席を立った矢先、引き出しの中に放り込んだままにしていた携帯が単調な電子音をたてる。
 いくつか所有しているうちのごくプライベートでしか使わないその番号にかかってきた電話がろくなものであるはずがなく、通話ボタンに指をかければ案の定今にも泣き出しそうな中年の男の情け無い声。
 ああ、どうしましょう、井伊殿。お勝さまが、お勝さまが。
 俺よりも倍も生きている人が良いだけが取り柄のこの男の、おろおろとうろたえるばかりで要領を得ない言葉に電話の向こうで起きている事態はだいたい予想がついた。
 落ち着いてください、田中さん。いまどこです。すぐに行きますから、場所を教えてください。ええ、ええ、わかりました。あと5分でそちらに伺います。どうかそのまま、俺が行くまで決して人を呼ばないように。
 それだけをきつく念を押して、それでもまだ言い縋ろうとするのを通話を切って遮り、コートを掴んでオフィスを出る。
 大通りで運良くつかまったタクシーに彼女のいる都心のホテルの名前を告げて、シートにもたれ俺はそこでやっと大きくため息をついた。
 今月に入ってこれでもう3度目。いい加減限界だ。
 彼女も、俺も。そして俺たちのボスも。
 無駄口を叩く事も無く目的地にたどり着いた模範的な運転手にチップをやり、車から滑り降りると慇懃な笑みを浮かべて深々と会釈するドアマンを通り過ぎてエレベーターに乗り込む。
 最上階のプライベートフロアに向かって上昇を続ける強化ガラスの箱の中で次第に遠ざかって行く足下の街の景色と腕時計を見比べると、ここまできっかり5分。
 きん、とまるい金属音が到着を告げてドアが開いたすぐそこには、携帯電話を握りしめたまま中年男が立ち尽くしていた。
 彼女は?
 彼を慰める気など毛頭無く短く問うと、彼は震える指で一番奥のベッドルームを差した。
 お勝さま、お勝さま。直政です。入りますよ。
 形ばかりのノックをして返事の無いままにレディの寝室の扉を開ける無礼は、この際咎められまい。
 大袈裟な天涯の付いたバカでかいベッドのうえに、まるで壊れた人形のように長くて細い手足を投げ出して彼女は横たわっていた。
 薄い水色のスリップドレスの肩ひもがひじのあたりまで落ちて、片方の乳房が露になり繊細なレースの陰に半ば乳首が覗いている。
 掻き毟って乱れたシーツの上にはすっかりからになった洋酒の空き瓶と、飲みきれなかった白い錠剤が乱雑に散らばって彼女を取り囲んでいた。
 いくら元が若くて美しい女でもこんなになっちゃお仕舞いだ。
 腕をとり、かろうじて脈があるのを確かめながらその顔を覗き込む。
 顎の辺りで切りそろえられた髪には吐瀉物がこびりついていたし、肌なんて100年も生きた老婆みたいにかさついて、目の下にはくっきりと濃い隈。とても二十歳そこそこの女とは思えない。
 お勝。お勝。目を開けろ。
 わざとあの人が彼女を呼ぶように名を呼んで、頬を軽く張ると涙に湿ったまつげが微かに震えた。
 ああ、あなた、きっと来てくださると信じていましたわ。
 彼女が朦朧とする目線の先に捕らえた俺の姿は、きっと彼女が求めるその人に見えたに違いない。
 胃液とアルコールに焼かれた喉で呟くうわ言は今にも消え入りそうに掠れて、それでいながら彼女は幸福な夢をみているように微笑んだ。
 やっとあのうるさい野良犬を追い出してくださったのね。
 これからはずっと、わたしを、わたしだけを愛してくださると、お願い、約束してくださいませね。
 とても死にかけの女のものとは思えないような力で俺の手を握りしめた爪先は短く整えられきれいなきれいな薄紅色で、そこだけは彼女がどんなにかわってしまっても俺が初めて出逢った頃の彼女のままなのだった。