彼女がこれほどまでに執着する男は、もうこの世に居ない。
 戦で負った傷が治りきらず領地から離れられぬままこの冬の終わり、春が始まりかけた頃に静かに独りで死んでいった。
 女は覚めない夢を見ている。
 夢の中では死人も生き返り、生者も死に続ける。

 
 あの戦場で、何もかもが終わった後に再会したお勝の心は跡形も無く砕け散っていた。
 半ば贄(にえ)に差し出すようにして別れ、二度と生きてその顔を見ることはないだろうと思っていたから、島津の陣から送り返されて来たという彼女に目通りしてほしいと家臣に小声で告げられた時には家康も内心戸惑った。
 どのような顔をしてあの女に会えばよいのだろう。
 大軍の統率者として女だてらの勇敢を褒め讃えようか、それとも年上の夫の顔をして優しく労をねぎらおうか。
 しかしそんな心配は杞憂に終わった。
 案内されたのは陣幕の奥深く、すっかり日の落ちて冷たくなった地面の上、罪人のように筵のうえに座らされて彼女は居た。
 もはや白銀の甲冑を身に着けては居らず、見慣れぬ白い小袖一つをゆるく着付けて、膝を崩して座り込むその袷(あわせ)から覗き溢れる脚の付け根に乾いてこびりつくどす黒い血の跡はまだ乾ききらずにぬらぬらと光って見えた。
 たったひとつ在るかがり火にほの暗く映る胸元の肌はいっそう蒼白で、顎のあたりで切りそろえた髪がざんばらに秋風に吹かれるのが切なく、家康はこの時になってやっと一度は捨てたはずのこの形ばかりの妻に興味を抱いた。

「お勝。」

 近付いてその頭上から、確かめるように名を呼ぶと女は緩慢に顔を上げ声のする方向にぼんやりと目をやる。

「勝。わかるか、儂だ。」

 返答があるとは思えなかった。
 きらきらと光る水面のようであった大きな瞳はいまや深く澱んで霧に包まれ、その表面に映るなにものも理解していないのは明白であったから。

「ごめんなさい。」

 長い沈黙の後に、女はそれだけ呟いて音も無く泣いた。
  
 
 

 以来、家康はこの気の触れた妻を屋敷の奥にひっそりと飼っている。

『内府殿にはご側室など何人もいらっしゃるでしょう。
 なのに壊れて使い物にならぬ女ひとりにご執心とは随分酔狂なご趣味で。』

 遠慮のない策士の男などはそう言って笑ったが、彼とて戦が終わってからもう何年も行方の知れぬ忍びの女を未練がましく追い回しているのだから少しはこちらの心のうちも分かっているのだろう。
 彼女を手放す気には到底なれない。
 哀れと思うせいもある。
 しかしそれだけではとうの昔に人形のようなこの女に飽きていただろう。
 別の理由が彼にはある。
 
 

 ひととおりの戦後処理を終え江戸に居を移した頃、あの男が死んだ。
 分かっていたことだったが、家康を襲った喪失感は想像以上のものだった。
 いまだ新たな体勢作りに忙しく働く家臣たちの手前、動揺した素振りをみせることもできず、けれどどうにも耐えきれなくなって思わずこの女ならば他言する心配もなかろうと家康は彼女の耳元に囁いた。

「直政が死んだぞ。」

 ひとつひとつの言葉を噛み締めるようにして。
 あの時はそうすることで自分自身に言い聞かせていたのだと思う。

「井伊直政が死んだ。」

 自ら口にした事実にうち震える家康の傍らで、彼女はいつものように微動だにせずにその声を聞いているようだった。

「儂の大切な万千代は、もうこの世に居ない。」

 ほんの一瞬、わずかの刹那、彼女の瞳孔が大きく見開かれる。
 嘆きは確かに彼女の心に届いていたのだ。

「儂をおいて逝ってしまった。」

 悲しみに心を覆われた家康が、その変化に気づくことはなかったけれど。
 
 
 
 それからしばらくたったある夜のこと。
 家康は真っ暗な縁側に座り何も無い夜の庭を眺める彼女が、はじめて表情らしきものを浮かべているのを目にする。
 まるで瞳を開けたまま夢でもみているように、実に幸せそうな顔で彼女は微笑んでいた。
 屋敷に連れて来てからずっと長いこと、能面でも付けているかのように無表情であったのがこのようなことは全く初めてで、狂人の描く幸福とは一体どのようなものかふいに興味を抱いた家康は戯れにその心のうちを覗き見た。
 そこにあったのは、今まで見て来たどの戦場よりも陰惨な光景。
 辺り一面の血の海に、もはや人の形を留めぬ姿で沈んでいるのは最愛の家臣であった男。
 そしてけたたましく笑い声をあげながらなおも彼を斬り刻んでいるのは己が妻。
 修羅場という言葉がこれ以上にふさわしい有様を家康は他に知らない。
 言葉を失う家康の横で、彼女は相変わらず童女のように静かに笑っていた。
 
 
 
 彼女の見る夢の中に自分はいない。
 本当ならば彼女に切り刻まれるべきは自分であるはずなのに、彼女は夫たる家康を選ばなかった。
 ばらばらになったはずの彼女の心の奥にたったひとつ残っていたのはあの男への執着。 それが彼女を現世に引き止めている。 
 これほどまでに強く純粋な想いは、まるで恋だと家康は思った。
 彼女自身はおそらく永遠に自覚せず、故に永遠に続く恋。
 恋に夢中になる女は何にも増して美しい。
 故に、家康はこの不義の妻を手のうちに飼い続けている。



<了>



  

  

 
   

     


一度割れて接いだ茶わんが好き、という理論