井伊直政は死なない。

 

 どういう仕組みだかは知れないが、例え腕がもげても目玉が潰れても、首を刎ねでもしない限り、あるいは首だけになったとてもおそらく、翌日には何喰わぬ顔をしている。
 それで痛みが無いかと言えばそうでもないらしい。
 破れた皮膚はきちんと傷跡を残したし、柱の影で次いだばかりの足の付け根を押さえて餓鬼のようにひいひい泣いているのを見かけたことがある。
 その身体の秘密に気づいてからお勝の、彼に対する仕打ちはまるっきり度を失った。
 なにせどんな無体を働いても死なないのだ。
 戦が終わって以来、江戸の屋敷に連れ戻されて暇を持て余している彼女にとって、これほど素晴らしい玩具が他にあろうか。
 彼女自身の腕力は並の女とたいして変わらない。
 むしろ深窓に育った分、か弱いと言っても良い。
 特別に軽く誂えた甲冑を身に纏い、細身の刀を勇ましげに振り回して見せても、彼女にできるのはそれが精一杯で実際に人を傷つけてみたことなど一度も無い。
 戦に出るのとて、最初は脚が震えて立っていることすらできなかった。
 狂ったような馬の嘶きや敵味方の区別無く飛び交う兵たちの怒号を遠くに聞いただけで身が竦み、腐った血と肉の匂いに吐き気を催し、一刻も早くこの場から立ち去りたいとそればかり考えていた。
 しかしそんな戦場の記憶は確かに彼女の奥に深く爪痕を残し、ついには嗜虐の堰を開けさせる。
 彼女は己の想像力の限りを尽くして彼を責め苛んだ。
 鋏で手足の爪を剥ぎ、油を垂らして肌を燃やし、傷口に酢を塗り込んで、悲鳴と共に床にぶちまけた吐瀉物をその口で掃除させた。
 目が気に喰わぬと言っては爪先で抉り出し、声がうるさいと言っては煮えたぎる油を直に飲ませた。
 冬の真夜中に素裸にして水風呂に沈め、空気を求めて頭を上げようとするところを飢えきった犬をけしかけて獣同士の共食いだと嗤った。
 一体どこから見知ったものか、熟練の拷問吏でさえこれほどの責めは思いつかぬほど様々に趣向を凝らして男を弄ぶ彼女を、もはや誰も止める事は出来ない。
 当の直政ですらなにを考えているのやら、呼びつけられれば逃げも隠れもせず大人しく縛に甘んじて抵抗らしい抵抗はせぬので、彼女はますます加速するばかりである。

 

 

 

 

 思うがままにこの暗い恍惚にひたる彼女にも、ただひとつ気にかかることがある。
 二人の主人はー彼の君主であり、彼女の夫であるその人はー彼女のこの愚行を知っているのだろうか。
 知っているのならば何故、黙って彼女の成すがままに許しているのだろうか。
 主人にとってこの男は大事な家臣のはずである。
 加えて先の戦では先鋒を勤め上げた功労者でもある。
 武辺を誇るだけで無く、内政においては大層頭がきれるとも聞く。
 それほど重宝する男が無下に虐げられているというのに、何故平気な顔をしていられるのだろう。
 彼の身体に変化があれば、主人は即座に気づくはずだ。
 彼らがそういう交わりを持っている事も彼女は知っている。
 彼の性格からすれば主人に問いただされたとて、おそらくお勝のことを口にはすまい。 それでも主人には神のごとき「眼」がある。隠し事などできるはずがない。

 

--それが、どうして。

 

 思いあまった彼女はある夜、閨で夫に問い詰めた。

「旦那様はわたしがあの男にしていることをご存知なのでしょう?
 なのに何故黙っていらっしゃるの?」

 彼女の夫は、白く強(こわ)い眉を少し動かしてみせただけで何も答えはしなかった。
 その下の、光の刺す加減によって白銀に光る瞳は瞼に閉ざされており、感情らしきものを伺うことは出来ない。

「ねえ、何かおっしゃって。」

 沈黙に業を煮やした彼女は分厚い肩を包む夜着を掴んで揺さぶった。

「貴方が止めろと言えばわたし、こんな馬鹿げたことはお仕舞いにするわ。
 貴方の言う事ならなんだって聞くわ。
 あんな男、あんな化け物、何をしたって死なないのだもの。相手にしても少しも面白くない。
 だから、その代わりに、ねえ、わたしにご褒美をくださいな。
 戦のご褒美を、わたし、まだいただいていないわ。」

 細い腕を首に絡み付かせて囁く甘い声がまるで聞こえておらぬかのように、夫は愛用の煙管に手を伸ばした。
 ゆっくりと深くそれを吸い、そして無言のままで絡み付いた彼女を払いのけ、下がるようなおざりに手で命ずる。
 そのようにされてはもう彼女は従うより他に無く、まだ月も昇りきらぬ宵のうちだというのに主人の元を辞さねばならない。
 苛立に身を焦がされそうになりながら部屋の外に出てみれば、そこには既に侍女が控えて彼女の退室を待っていた。
 小賢しい。まるでわたしがすぐに追い出されるのを知っていたみたいじゃないか。
 誰も彼もがわたしを馬鹿にして、なにもかもが憎たらしい。
 そうだ、またあの男を呼びつけてやろう。
 夫が彼を呼ぶ前に、こちらに捉えてしまおう。
 そして今日も思いっきり酷いことをしてやるのだ。
 そういえばよく斬れる刀を手に入れたのだっけ。あれの斬れ味を試してみたい。
 まずはあのよく吼える舌を斬り落として喰わせてやろうか。

 

 哀れな獲物が身も世も無く泣き叫ぶ姿を思い描くうちに彼女の心は毬のように軽く弾み、叶わなかった褒美のことなどすっかり忘れ去ってしまった。

 

 

 

 

 こんな男、いなくなればいい

 何度も思った 
 初めて出逢った時から
 何度も何度も

 こんな男がいるせいで、あの人はいつまでたってもわたしを見ては呉れない
 わたしに触れても呉れない
 わたしはいつまでたっても飾り立てた人形のまま

 こんな男、いなくなればいい
 こんな男、死んでしまえばいい

 死んでしまえば

 

 あまりに思いすぎて、仕舞いにはそれが願望なのか現実なのか区別がつかなくなった。
 わたしが毎晩殺しているあの男は、一体なんなのだろう。
 死なない人間などいるはずがない。