井伊直政の部屋にはカーテンが無い。
雨戸などという気の利いた物ももちろん無い。
唯一夏の日差しを避ける為に窓枠に釣られていた100円ショップ製のすだれは、秋口に関東を直撃した台風によって跡形も無く吹き飛ばされた。
随分日も短くなったとはいえ、徹夜のコンビニバイトを終えた後、朝日の差し込む六畳間で眠りにつくのは困難を極める。
その日もまた彼は廃棄品のおにぎりをしこたま詰め込んだビニール袋を両ハンドルに掛け、愛用の自転車を引いて早朝の家路を辿っていた。
繁華街のコンビニから大学に近い直政の住むボロアパートまで全力でペダルを漕げばおよそ30分。
しかし、レジ打ちよりも急遽お誘いのかかった合コンの方を優先させるというバイト仲間の突然の裏切りの結果もたらされた連続12時間に及ぶ勤労の末、睡魔と疲労に支配された彼にはそんな気力はもはや残されてはいない。
加えて、急ぎたどり着いたところで待つ我が家の環境の過酷さを思えばさらに足取りは重くなる。
そんな心の内を代弁するかのようにギシギシと悲鳴を上げる車体を押し、繁華街の外れまで来た時、ふいに自分の名を呼ぶ声に直政はうなだれていた顔を上げた。
辺りをみまわせばそこは場末のラブホテル街のど真ん中であった。
“東京”とは名ばかりの、辺境のベッドタウンのこの街にもこんな場所を必要とする人間は居るものだ。
やたらとけばけばしく薄汚れた看板に囲まれて、こんなところに知り合いなどいないはずだがときょろきょろと周りを探す。
「やっぱり直政じゃねぇか。朝っぱらからこんなところでなにやってんだい。」
「とう..どう?」
けらけらと笑いまじりの声の主・藤堂高虎の姿を認めて、直政は露骨に眉をしかめた。
その男とは特別に親しいわけでもない。
ひょんなことから顔見知りになり、校内で何度か立ち話をした程度。
年も学科も随分ちがう。
それがこんなところで、こんなふうに出逢ったとして、わざわざ声を掛けて来なくても良いではないか、と直政は内心毒づく。
何故ならば高虎は今まさにホテルのゲートから出て来たばかりで、そこで夜を共にしたであろう恋人を傍らに伴っていたからである。
高虎の影に隠れてよく見えなかったが、その人は黒くて長い髪の、随分背の高い女性のように思われた。
顔はわからないが何事も器用にこなす高虎のことだ。きっと美人なのだろう。
我知らずいぶかしげな視線を送る直政に気づいたのか、その人は高虎の耳元で短く何ごとかを告げると踵を返し駅の方向へとさっさと一人で歩いて行ってしまった。
「いいのか...彼女。」
途端に慌てる直政の言葉に、高虎は一瞬惚けた顔をして、それから肩をすくめた。
「いいさ。あれでなかなか強かでね。それよりさ、あんたこれから帰り?」
ああ、と答えて直政は目の前の年上の男に対し言いようの無い苛立を感じている自分に気づいた。
彼の名誉の為に付け加えればそれは決して、少なくともこの時点に於いては“自分をないがしろにして女にうつつを抜かす恋人に対する嫉妬”などという甘酸っぱいバックボーンに裏打ちされたものではない。
直政と高虎の仲が現状の“顔見知り”以上に進展するには今少しの歳月を要するのだが、それは今後のお話し。
ともかくこの時の直政は偶然出逢った高虎に対して、理不尽とさえ言える憤りを感じていた。
自分が徹夜の勤労に励んでいる頃、こいつはどこぞの女と楽しい夜を過ごしていた。
確かに高虎は大人だ。自分には手の届かぬ世界を知っている、それは当然のことなのかもしれない。
しかし、俺はどうだろう。
直政は考える。
一般大学への進学を勧める家族の反対を押し切って美大、それも就職というものに関して無縁と言っても良い彫刻科を受験し、学費を奨学金で賄い、生活費と画材代のすべてを稼ぐため日夜バイトに励むこの身の上。
己で選んだ道とはいえ、直政も所詮は十代の若造であった。
客の居ない時間、バックヤードで開くヤンマガのグラビアには毎回ぐっとクるし、好奇心からめくってみたエロ本はしっかりとお気に入りのページを写メってお持ち帰り、深夜に肩を寄せ合ってコンドームを買って行くカップルには拳をお見舞いしてやりたい、そんな普通の青年である。
そんな彼の目に高虎の存在は欲望の赴くままに快楽を貪る、憎むべき悪として映ったのである。
が。
「うち近いんだけど、寄ってかないか?コーヒーくらい出すぜ。」
...コーヒー。
高虎のきまぐれに発したその単語にいとも簡単に直政の心は折れた。
湯気を漂わせるカップの中に夜の漆黒がとけ込んでいるかのような、煎れたてモーニングコーヒー...それはひそかに、随分長いこと、直政の憧れであったのだ。
幼少の頃から直政は病弱な母の代わりに叔母の手で育てられた。
女手ひとつで「静岡おでん・女地頭」を切り盛りする彼女は、忙しい毎日の生活の中でも彼女なりに精一杯の愛情を甥に注ぎ、直政もまたこの威勢の良い叔母を慕っていた。
そんな直政の朝ご飯はいつも、昨晩のうちに台所のテーブルのうえに叔母が用意しておいてくれた店の残り物のおでんだった。
夜遅くまで店に出ている叔母を起こさないように、そっとその真っ黒な汁を1滴のこさず飲み干し、直政は家を出て学校に向かう。
それが少年時代の朝の光景。
ところが中学生になったばかりのある時、またまた遊びに出かけた友人の家で直政はその漆黒の液体と出逢う。
彼の知るものとは色こそ同じであったがまったく違う、実に香ばしい香りを漂わせているそれが、コーヒーという飲み物である事を直政はこの時初めて知った。
そしてそれが、多くの家庭で朝の飲み物として親しまれているのだということも。
帰宅するなり、おでんの仕込みをしていた叔母にむかって直政は訴えた。
うちも朝はコーヒーにしてほしい、と。
同じ真っ黒でもおでんの汁じゃなくてコーヒーが飲みたいのだ、と。
対する叔母の答えはにべもなく否、であった。
子供がコーヒー何てものを飲むと背が伸びない、と彼女は信じていたのだ。
それ故に大切な預かり子である直政にそんなものを飲ませるわけにはいかない。
直政の訴えは却下となり、この短い交渉は終わる。
そのおかげかその後すぐに成長期を迎えた直政の身長は伸びた。伸びまくった。
中学卒業時には学年で一番でかくなり、次いで入学した高校では初めてすれ違った3年生に向こうから挨拶された。
その点は感謝しているのだが、結局直政が実家にいる間、朝のコーヒーにお目にかかる事は無かったのである。
そして現在、悲しいかな彼の家にはインスタントの粉末どころかやかんすらない。
いざ手にした自由は同時に貧困をも直政にもたらしたのである。
高虎の魅力溢れる誘いに一も二もなく頷きそうになり、しかし直政は念には念をと口元を引き締め、目の前の男に向かってこう言った。
「藤堂の家には、カーテンと布団はあるのか?」
ああ、もちろん、と極めて平静を装って頷いた高虎であるが、この問いかけは直政本人の意図せぬところで高虎に性的な期待を抱かせ、果てはふたりの間が進展するきっかけを作ることになるのだが、この時の直政の思考はそこまで及んではいない。
疲労困憊の極地に達していた彼の渇望したのは、ただ疲れを癒す快適な寝床。
そこがたとえそれほど親しくない他人の家であっても、もはや彼には関係なかった。
「藤堂、世話になる!これは手みやげだ!!」
突きつけられた賞味期限の切れたおにぎりの山を前に高虎は呆れた顔で苦笑った。
つづくの?
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