いつも通りに軽い残業を終えて帰りついた家のドアが開いたままになっていて、嫌な予感に思い当たるのはあいつに渡した合カギだ。
 玄関に放り出された俺のものではない靴。
 リビングへと続く廊下に投げ捨てられた鞄とストール。
 突き当たりのバスルームの盛大に開け放たれたドアの向こうからは、ざあざあ大雨みたいな音が聞こえてくる。
 俺の勘はこんなときばかり良く当たり、覗き込んだ先には服を着たままバスタブに沈んでいる奴の姿。

 

--なぁあんた、なにやってんの。ひとんちでさ。

 

 決して慌てふためくこと無くきわめて冷静を装い、水しぶきでびしょ濡れになった洗面所の床を歩いたせいで雑巾みたいになった靴下を脱ぎ捨てる。
 ズボンの裾を巻く上げながらシャワーを止めて声をかける俺に、こいつは閉じていた瞼をおっくうそうに動かしてみせただけだった。
 まあ、聞かなくても見りゃあわかるけど。
 床に落ちた剃刀。
 手首を横切る傷がぱっくり開いてそこから滲む血液がバスタブに溜まった湯をそれは奇麗なロゼに染めている。
 もはやこの事態に慣れっこになってきている自分が俺は少し嫌になる。
 原因は大方、思い当たるんだ。
 こいつが年甲斐も無く懸想してる大学生の若造。
 先月はそいつが自分の留守の間に部屋に女を連れ込んだってんで大荒れに荒れたんだっけ。

 

--仕方ないじゃねぇか、やりたい盛りの年頃だぜ。

 

 慰めてやるつもりでわざと軽く笑い飛ばしたら鼻っ柱に鉄拳を喰らった。
 そのうえだ。
 こっちが鼻血だらだら流してる目の前で手首切られて、それでも喉に流れ込んでくる鉄臭くてしょっぱい血を飲み込みながらこいつの方を先に止血してやる俺ってどれだけお優しい男なんだと我ながら呆れちまう。
 その前はそうだ、ずっと前から食事の約束をしてたっていうのにドタキャンくらってその理由ってのがそいつが小さい頃から面倒見てるガキが急に遊びに来ることになったから、というやつだった。
 そのガキてのがまだ小便臭ぇくせに生意気にそいつと腕組んで実に楽しそうにまとわりついていたんだってこいつは吐き捨てるように言うが、てことはあんたそれをどこかから盗み見してたってことだよなぁ?
 あぁ、考えるだにこいつの執念には鳥肌が立つ。
 兎に角まあその度に、こいつはこんなことを繰り返す。
 一度だけ、その男はあんたがこんなことしてるの知ってるのかい?と訊いてみたら、三成にそんなみっとみないところを見せられるかって鳩尾に拳がめり込んだ。
 じゃあ、こんなみっともない姿を見せるのは俺だけってことか。
 そりゃ有り難いこって。
 

 

 

 
 厄介なことにこいつはみんなわかってやってる。

 どれくらいの傷をつければ、どれくらいの血が出て、それが治るのにどれくらいの時間が必要なのか。
 間違っても死なないように、けれど俺の平凡でちっぽけな純情に最大限の動揺を与えるために、自分が流すべき最低限の血液の量。
 おそろしく計算高いおつむのなかでちゃあんと天秤にかけてやがるのさ。
 でなけりゃわざわざひとんちでジサツミスイするなんて全くもって意味がない。
 本気で死にたきゃ他にいくらでもお手軽で確実なやりようがあるってもんだろ。
 結局こいつは死にたがりの自己陶酔家。
 お可哀想なご自分がなにより好きで心地いい。

 
 
 こいつの顔がもうちょっと凡庸だったら。
 

 こいつの頭がもうちょっと鈍かったら。

 

 そしたら俺たち、案外“いいお付き合い”できたんじゃねぇのかな。