「身体の中から声がするのです。」

 相も変わらずおかしなことを口にされるお人だ、と高虎は思った。
 天下人となった徳川内府の奥方は些か変わっている。
 先の戦では男のように甲冑を身に付け、そればかりでは飽き足らずに自ら抜き身を降り下げて戦塵の中へ撃って出た。
 しかしそれも過ぎたこと。
 今はあの戦装束が嘘であったかのように、薄い瑠璃色の打ち掛けをゆるりと羽織り、脚を崩してしどけなく脇息に身を持たせかけている。
 伸びた髪が肩を覆って流れ、顔も身体も丸みを帯びて、纏う空気は随分和らいだように見える。
 その人が外様の一人にすぎない自分なんぞを呼びつけて、それでも少しは女らしく落ち着いているのかと思ったが、口を開けばこの調子だ。
 はあ、と間抜けな返答をかえす高虎に構わず彼女は続けた。

「初めはざわざわと、たださざめくだけでありました。
 耳鳴りか、あるいは風に木の葉の吹かれる音、そう思っておりました。
 けれど、例えば静まり返った夜更けなどに、じっと耳を済ませておりますとそれがだんだんと人の言葉に聞こえて参りました。」

「声は何を話しておりましたか。」

 半信半疑で高虎は彼女に問うた。

「それが、殿のことばかりなのです。」

 頬をぽぅ、と紅に染めて彼女は袖を引き寄せる。

「あの方はお強そうに見えるけれど本当は誰よりもお寂しい方なのだとか、それから、そうね、お好きな食べ物のこと。
 鷹狩りのこと。可愛がっていらした鷹の名前。
 家中があまり豊かでなくて、苦労をしたけれど皆がそろって居て楽しかったこと。
 わたしの知らない、昔のこと。」

「奥方様でもご存知ない、内府殿の?」

「ええ。みんな、わたくしが嫁いでくる前のこと。
 それを殿に申し上げましたら、あの方はわたしの気が触れたとでもお思いになったのでしょう。
 わたしを医師にお診せになりました。」

 すぐに呼ばれた御典医は彼女の顔を覗き込んで脈を取り、侍女にいくつかのことを小声で尋ねてから腕組みしてしばらく思案していたが、仕舞いに彼女に告げたのだという。

「懐妊しているのですって。」

 袖口から覗いた、細い真っ白な指がそっと腹の辺りを撫でる。
 その時になってやっと高虎は、彼女の打ち掛けに隠れていた腹が常より張り出している事に気づいた。

「おかしなものですわね。
 一度はあのような修羅場に身を置いた女が人の親になるなんて。」

 音を立てず、息だけで笑う彼女はやはりあどけない少女のようであった。

「それで、声の方は?」

 この告白をめでたい事とは思いながらも、高虎は未だ筋が飲み込めない。

「次第に弱く小さくなって、このところはもう聞こえません。
 丁度この子が動き始めたのと入れ替わるように。
 それで、わたし、思うのですけれど、あれはあの人の声ではなかったのかしらね。
 あの人、殿のことが気がかりでこちらに戻って来たのではないかしら。」

 ああ、そういうことかと高虎はやっと合点した。
 彼女の言うあの人、とは井伊兵部のことだ。
 名を出さずとも、ふたりながらその人については深く思うところを抱えている。
 その人は既にこの世に亡い。
 年が明けてすぐ、春を待たずに独りでひっそりと死んでいった。
 彼女はもちろん高虎も、彼らの主人でさえもが遠く離れていて一度も見舞うことさえできないままだった。
 故にその死に様を誰も見ていない。
 だから、もしかして、今もどこかで生きていて何かの拍子にふいにあの屈託の無い笑顔を覗かせるのではないかと思う瞬間が高虎にはある。
 それはどうやら彼女も、彼女の夫も同じらしかったが、三人とも口には出さない。

「どうして、それを俺に?」

「最後に声が言ったのです。
 藤堂殿によろしく頼む、と。
 それまではずっと殿のことばかりでしたのに、おかしな方ですわね。」

 彼女は笑ったが、己に向けられたその言葉とて結句、主人の為に吐かれたものなのだから始末に困る。
 その人はいつだって自分を困らせる。こんなふうに分たれてまで、なお。
 どうやら自分はもうしばらく彼には会えそうにないと、高虎は苦く笑った。



  

  

 
   

     


さよなら
わたしたちの
すきだったひと