SketchBook:0

 

 

 

 4月のキャンパスほど私が嫌悪するものは無い。
 ようやく長い浪人生活を終え我が世の春の始まりとばかりに浮かれる者。
 それに便乗してとにかく喧噪に浸りたい者。
 皆、今を盛りと咲く満開の花の下には須く死体が埋まっていることに気付きもしないで。
 履修の手続きなどなければ、騒ぎの落ち着く連休明けまでどこか景色の美しいところへ取材旅行にでも出てしまいたいくらいだ。
 そんな私がキャンパスにわざわざ足を向けたのは他にも目的があった。
 ノートほどの大きさのスケッチブック。
 私はそれをある人物に届け、そうしてそこに書かれている真実を確かめなければならない。
 遺された者の義務として。
 
 これの本来の持ち主はもはやこの世に亡い。
 あんなことにさえならなければ彼は今も青春のまっただ中の日々を、このキャパスで過ごしているはずだった。
 それが県境のめったに人の立ち入らぬ深い山の中で変わり果てた姿で発見されるなんて人生はなんと儚いのだろう。
 彼の四十九日の法要(正確には彼が“発見”されてから四十九日後の法要だ。彼が死んだ日付を正確には誰も知らない)で私はこれを彼の年老いた両親から預かった。
 奇麗に片付けられたアパートの部屋の、机の引き出しの中にこのスケッチブックと、それを私に渡してくれるよう書き記したメモが添えられて遺されていたのだという。
 両親さえも中身を読んでいないこのスケッチブックに、彼は日記をつけていた。
 彼らしく小さく几帳面な文字で記されたそれは、日々の出来事が具体的に綴られている訳でもなく、日付も曖昧で、いわば彼のその時々の心情を書き留めたメモ書きのようだった。
 それを初めて読んだ時、無様なことだが私はひどい吐き気を覚え、実際朝食べたアジの開きと再び対面することになった。
 多大な精神的ダメージからようよう回復した私は、同時に自分の中の義を愛する心が膨れ上がるのをもはや自力では押さえることができなくなっていたのだった。

 こんなきっかけでもなければ立ち入ることもなかったであろう隣の学科の研究室のドアを叩く。
 
「どうぞ。開いてますよ。」
 
 事前に訪問のアポイントメントを取り付けていた私を彼は穏やかな声で招き入れた。
 狭い研究室に漂う慣れないテレピンの匂い、散らばるエスキース、張り終えたばかりのカンバス。
 この春助手の身分から異例の抜擢で准教授へと昇進を遂げた彼の名は、島左近。
 デビュー以来初の大規模な企画展を控えて日夜制作に追われているというこの男は、スケッチブックの持ち主であり私の親友であった三成の名を出した途端、手のひらを返したように是非とも会いたいと申し出て来たのだった。
 
「貴方から連絡があった時はびっくりしました。
 俺に渡したい物があるとか。」
 
 私はカバンからスケッチブックを取り出すと彼の目の前に置く。
 
「これは...。」
 
「三成のものだ。お前にはこれを読む義務がある。意味はわかるな?」
 
 左近は怪訝な顔でそれを手に取り、ゆっくりとページをめくり始めた--。

 

 

 


プロローグでした