その人は私の半歩先をゆっくりと進み、時折立ち止まっては路地裏から顔をのぞかせる猫をからかったり、他人の庭先で蕾みを綻ばせる梅に見入ったりしている。
 そうやって彼の暮らすアパートへと暗い夜道を連れ立って歩く間、私たちは互いの名前を教え合う意外にほとんど言葉を交わすことはなかった。
 ふわふわと、まるで夢の中を行くようなその足取りに従ううちに、私も次第に現実感を失って行く。
 果たしてこれは本当に現実の出来事なのだろうか。
 それにしては物事が上手く進みすぎてはいないだろうか。
 こんな時、私は自分の疑い深い性格がほとほと嫌になる。
 いっそこれが夢であったら私はどんなにか自由に振る舞う事が出来るだろう。

 

 私にとって“自由”という言葉の裏にはいつも妻の影がある。
 彼女との関係はあくまで戸籍上だけのものであり、実際には私と彼女との間に並の夫婦らしい繋がり〜端的に言ってしまえば性的な交渉〜は無い。
 彼女は私を現実につなぎ止める枷であり碇であり檻である。
 私は学生の時分にひとり娘の行く末を案じた彼女の父親に乞われて婿養子となった。
 独り身の自由と引き換えに手に入れた安寧な人生。
 全てが保証され何一つ不足のない生活。
 妻は美しく聡明で彼女に対して不満に思う事はひとつもない。
 お互いに恋慕の情を抱いていないというその一点を除けば私たちは完璧な夫婦なのだろう。

 

「どうしたの、宗茂くん。」

 

 彼の声で我に帰る。

 

 

「ぼんやりしていたみたいだけど、大丈夫かい?」

 その人は先程の家から失敬して来たらしい梅の枝を振りながら私に近付いて顔を覗き込んだ。
 とはいっても、背丈は私の方が少しばかり高いので彼の方が私を見上げる格好になり、小首をかしげるその様がなんとも愛らしい。

 

 ...愛らしい?

 この人が?

 

 私よりずっと年上の、数時間前に初めて言葉を交わしたばかりのこの人に対して、私はなんという感情を抱いているのだろう。
 妻に対しては憐憫をこそ感じても、一度だってそんなふうに思った事が無いというのに。

 

「なんでもありませんよ。
 それより貴方の家はまだ遠いんですか。随分歩いている気がするけど。」

 

「もう着いたよ。」

 

 動揺を悟られないようにわざとぶっきらぼうに問う私に、彼は手にした枝の先で目の前の古いアパートを指し示した。

 

 

 

 

 

 “懐古趣味”といえば聞こえは良いが、それにしてもこの建物はあまりに粗末すぎた。
 盛大に悲鳴を上げる木の床を踏みしめ、先日の大雨で腐りかけているという階段を踏み抜かないように登った先、二階の奥の二部屋がその人の住処。

 

「こっちは書庫にしてもう一部屋で暮らしているんだけど、こんな有様だからね。家賃はとても安い。
 二部屋合わせてもワンルームも借りられないよ。」

 

 ペンキの剥がれかけた木のドアに取り付けられた南京錠を開けて、そこに広がる部屋の様子は異様と言っても良かった。
 もともとは六畳ほどの和室の壁は4面とも全て天井まで届く書架に覆われ、その前にも平積みにされた本がまるで山脈のように部屋の奥まで連なっている。
 結果、畳の見える部分は半畳分ほども残されていないだろう。

 

「下の人が家鳴りがすごいって言うものだから、これでも少しは片付けたほうなんだけどね。
 ああ、適当に座って。いまお茶を煎れよう。」

 

 本の山を崩さないように気を使いながら、しかしそれは物理的に到底不可能で、雪崩を起こした本を押しのけて私はようやく自分の座る場所を確保する。
 そうやって私が本と格闘している間、彼は玄関の脇にある小さな流し場でやかんに水を汲むとそれを付けたばかりの石油ストーブの上に乗せた。
 これでは彼の言うお茶がはいるのに、随分と時間がかかりそうに思える。

 

「すごいな。これ全部読んだのですか。」

 

 崩した本を適当に積み上げ辺りを見回す私に、その人は本の隙間から紙のようになった座布団を引っ張り出して勧めると、笑いながら言った。

 

「半分はね。残りの半分はわたしが書いたものだよ。」

 

「貴方が?」

 

「わたしはこれでも随分長いこと生き物の研究をしていたんだ。
 生物学者というやつだね。研究の為にたくさん旅もしたし論文も書いた。
 でも、本当は、」

 

--本当は小説家になりたかった。

 

 窓を叩く風の音にかき消されそうなほど小さな声で、それがとうに終わった夢であるかのようにその人は言った。
 とても寂しそうに。
 まるで、大切な玩具を無くしてしまった子供のように。

 

「小説家に年齢制限は無いでしょう?いまからだって目指してみればいい。」

 

 その時の私は知らぬとはいえ酷いことを言って彼を傷つけてしまったような気がする。

 

「宗茂くん、あのね、わたしが書きたいのは恋愛小説なんだ。
 それも、未だかつて誰も知らなかったような、とびきりの恋を。

 ...こんな話、わたしみたいなじいさんがするのはおかしいだろ?」

 

 おかしくないですよ。そう言いたくてしかし声にすればまた軽々しい嘘のようで、私はただ首を横に振ってみせる。

 

「でもね、わたしには駄目なんだ。駄目なんだよ。
 だってわたしは恋というものをしたことがないから。
 だから余計憧れるのだろうけれど。」

 

 彼は無理に歪めた笑顔をこちらに向けた。

 わたしは生物の本質を知れば知るほど、恋というものが信じられなくなる。
 人が人を求めるのは単に本能の命令に従っているだけなのではないだろうかって。
 わたしたちは所詮遺伝子の奴隷にすぎないのではないだろうかって。
 自分が長年かけて導き出した結論を、誰かが覆してくれる事をわたしは心のどこかで望んでいるんだ。それはとても矛盾していることだけどね。

 少し早口になって話すその人は、目の前の私にではなく自分自身に語りかけているのだ。
 おそらくは長い間ずっと、一人では答えのでない命題を。
 組んだ足の上で長い指を持て余しながら、冷めた熱弁を振るうその姿に私は自分が彼に惹かれた訳が分かった気がした。

 私とその人は同種の焦燥を抱えている。
 諦めたつもりで、諦めきれない想い。
 蓋をして忘れ去ったはずの感情。

 彼を見ているとそれが息を吹き返して蠢き出すのを感じる。

 

「俺が相手ではいけませんか。」

 

 気がつくと私は彼の指に両の手で触れていた。

 

「俺と恋をしませんか。
 いいえ、恋人のふりでいいんです。
 そうすれば、何か、少なくともこうして一人で考えているよりは何かわかるかもしれない。」

 

 言葉の最後はほとんど自分に向かって発せられたものだった。

 

「恋人のふりというのは、」

 

--こういうことかな?

 
 声が間近に降って来たと思った途端、長い前髪を除けてその人の唇が額に触れるのを感じた。
 ただ軽く触れただけのそれは乾いて柔らかく、私の胸を強く掴んで締め付ける。
 いつの間にかストーブの上でやかんの立て始めた湯気の音が、耳の奥で開幕を告げるシンバルのように響いた。

  

   

 

  

  

   

 

  


お菓子のお礼がどっかいった