「わたしは幽霊なんだよ。」

 その人は言った。

「どういう意味ですか?」

 尋ねる私に、その人は少し困ったというように笑う。

「わたしはね、本当は死んでいるのに生きているふりをする。だから幽霊だ。」

 そしていつも彼がお別れの時にするように、私の顎に指を添えて浅く口づけ目を真っすぐに見てこう続けた。

「君はその逆だ。生きているのに、死んだように振る舞う。」

 私は彼の言葉の意味を考え続けている。

 
 その人が消えてしまったあの時から。ずっと。

 

 

 

 

 私がその人と出逢ったのは、街角のとあるカフェだった。
 手持ち無沙汰に散歩に出た帰り、行きに通りがかった時と寸分違わぬ姿勢で店の奥の椅子に埋もれてページをめくる彼の眼差しに、何故だか強く引きつけられた。
 私は一度気にかかったことはどうにでもして解決しなければ済まない質である。
 この時も面倒とは思いながらも他に予定のあるでなし、気がついた時にはカフェの扉に手をかけていた。
 カウンターでコーヒーを注文し、ほどなくして香ばしい湯気の立つカップを運んで来たこのカフェの主人に彼のことを尋ねてみる。

「あの人、いつからいるんですか?」

 彼のいる陽の当たらない隅の席を顎で差して問う私に、主人は一瞬眉をひそませ、それからおっくうそうに答えた。

「ずっとだ。」

「ずっと?」

「ああ、ずっと。
 ろくに注文もしないで長居をされて、いい加減迷惑している。」

 どうも、と軽く礼を述べて篭に盛られたチョコレートをひとつ掴むと代金分のコインをカウンターに残し彼の席に近付く。

「ここ、よろしいですか?」

 返事を待たず、対面のソファに腰を下ろした私に彼は細めた目を僅かに見開いてみせる。

「よろしければどうぞ。頭を使うと甘い物がほしくなるでしょ?」

 手をつけられないまま冷えるに任せた彼のカップの脇に小さな菓子を置き、私は穏やかに笑いかけてみせた。

“私は決して貴方の敵ではありません。
 貴方に危害を及ぼす気などありません。”

 そういう意味を込めた、ありったけ無害な表情で。
 老若男女を問わずたいていの人間はいとも簡単に私のこの顔に騙されてくれる。
 これは私が貧しかった両親から引き継いだ数少ない遺産の一つだ。
 しかし、彼はといえば、そんな私にさしたる興味も示さず手にした本から目を離さないまま、軽く頭を下げる仕草を見せたのみであった。
 それからの私は端から見れば随分滑稽であっただろう。
 なにせ、彼が手にした本を読み終わるまでの長い時間、すっかり空になったコーヒーを片手に彼の興味がこちらに向くのを根気強く待ち続けていたのだから。
 私が次に彼と言葉を交わした時には既に窓の外は既に真っ暗だった。

「随分熱心に読んでいらっしゃいましたが、それ、おもしろいですか?」

 長い腕を天井に向かって伸ばし、伸びをする彼に問いかけてみる。
 テーブルの上に置かれた本の背表紙には、私の知らない外国の作家の名前が金文字で綴られていた。

「なかなかおもしろいよ。ここには良い本がたくさんそろっているね。」

 店内の壁を覆う本棚をぐるりと見回して彼は満足げに言った。
 そして、ようやく私の目を見て。

「さて、君は誰だろう?」

 目の前に置かれたチョコレートの銀紙を剥がしながらその人は小首をかしげた。

「どうも私の記憶には無いんだが。
 失礼だけど君とはどこかで出逢っているんだろうか。」

「いいえ、いま初めてお会いしました。窓の外から見えた貴方が気になったもので。」

「変なことを言うなあ、君は。
 こんなじいさんに声をかけたっておもしろくないだろうに。」

 丸いちいさな塊を口に放り込んでから、その人はおや?というようにまた首を傾げる。
 この菓子は果たしていつからここにあったのだろうか、口にしてみてからようやくそのことに疑問を抱いたらしい。
 ということはやはり、先程の私の言葉は彼の耳には入っていなかったらしい。おそらくは、渾身の笑みさえも。
 
「よろしければ、コーヒーのお代わりも頼みましょうか。」

 彼の呑気さに半ば呆れて小さく笑いながら私が言うと、その人はいらない、と頭を振った。

「わたしはね、本当はコーヒーが苦手なんだ。
 いつもは紅茶しか飲まない。」

「でも、ここのメニューにはコーヒーしかないでしょう?」

「そこだよ。
 それがジレンマというやつさ。
 本は読みたし、さりとて苦手なコーヒーを飲む訳にもいかない。
 それで止むなく一杯だけ頼んで居座らせてもらっている。
 おかげで、」

 その人はカウンターの方に視線をやって苦笑う。

「わたしはいつも彼に睨まれている。」

 振り向くと、そこには銀のスプーンを磨きながらこちらに凍り付くような視線を送る店主の姿があった。
 まるで祟り殺さんばかりの容赦ない負のオーラ。
 用が澄んだらとっとと出て行けと全身で露骨に語る、客商売にあるまじき態度。
 このカフェに私たち以外の客がいないのも得心がいくというものである。

「さ、出ようか。」

 テーブルに残された冷えたコーヒーに申し訳無さそうな視線を送りつつ、その人は席を立った。

「君、よければこれからうちに来るかい?」

 甘いお菓子のお礼をしなければ。
 願ってもみない誘いに、私はほとんど子供のような仕草で頷いた。