夕暮れ時、先の戦の前夜に焼け落ちて久しく廃墟となっている屋敷の前を歩いていると、後ろから女の呼ぶ声がした。

「お助けくださいませ。どうかお助けくださいませ。」

 いかにも儚げな風情の弱声につい振り向くと、そこには白い着物の女がひとり立っている。
 見れば豪奢な打ち掛けの裾を煤に汚し、髪を乱れさせ、足下は裸足のままの到底尋常でない様子。

「どうしたんです、そんな成りをして。一体何があったんです?」

 まるで狂女の有様に、ついつい興味が沸いて高虎は女に問いかけた。

「わたくし、この先のお屋敷から逃げて参りましたの。
 あの恐ろしい男からどうかわたくしをお助け下さいませ。」

 己に向かって伸ばされる女の腕の、袖口から覗いた肌に無数に走る紅い傷に目を奪われる高虎に、彼女は啜り泣くような声で語り始めた。

 

 

 

 

 わたくしが夫に嫁したのは互いに16の春でした。
 まるで雛の一対と皆に褒めそやされて、わたしはあの時確かに幸せであったはずなのです。
 それがいつの頃からでありましょう。
 夫の、わたくしへの執着が尋常の域を越えましたのは。
 はじめのうちは何も分からずに、いずれのご家中にても夫の妻への束縛というのはこのように激しいものなのかと驚きながらもそれを受入れて参りました。
 それどころか呑気なことにわたくしは、夫がわたくしだけを可愛がってくださるのをうれしく感じてもいたのです。
 ところが、でございます。

“みだりに屋敷から出るな”

“己の部屋より出てもならぬ”

“身の回りの世話をする侍女以外の者と口をきくな”

“自分以外の男とは顔を合わせてもならぬ”

 夫の要求は次第に度を増していき、わたくしはまるで駕篭の中の鳥、いいえ駕篭の鳥であってもあのような無体な目にはあわぬはず。
 妬心に狂った夫はわたくしの部屋にやって来る度に、夜も昼も無くわたくしを問い詰めるのです。
 自分の目を盗んで、どこぞの誰と密通しているのではないか。
 それは家中の小者からご自分のご主君にあたられる方までも、夫は自分の頭の中でわたくしが自分以外の男に懸想する様を勝手に思い描いては存在すらしない相手に嫉妬いたします。
 狂人めいたその妄想をもってわたくしを問い詰め、わたくしがそれを認めて許しを乞うまで鉄の鎖で縛り上げ、罪人のようにむち打つのです。
 そうしてわたくしがのたうち回る様を見て愉悦に浸るあの方のお顔、地獄の鬼とはきっとあのような形相をしているに違いありません。
 そのような夫が、わたくしが自分以外の男に肌を晒すことなど到底許すはずもなく、我が身に受けた傷を医師に診せることもできず、またそれが元で高熱を発した時でさえわたくしは床でひとり三日三晩悶え苦しんだのでした。
 このままでは遠からずわたくしはあの男に殺されてしまう。
 どうせ死ぬならこんな座敷牢の中でなく、ひとめ外の世界を見たい。
 そう思い、こうしてついに屋敷を逃れて参りました。
 どうかお助けくださいませ。
 わたしを哀れんでくださるのならば、どうぞお慈悲をおかけくださいませ。

 

 

 

 

 それは本当に酷い男だ。
 さぞやお辛かった事でしょう。
 今のお話しを聞いてふと思い当たったのですがね、俺の知り合いにも奥方を溺愛していた男が居ましてね。
“いた”というのは、奥方が今はもうこの世の人ではないからなのですけど、そいつの場合には事情が少し違っているんです。
 奴の奥方というのが大層な別嬪なんだが、それだけに自尊心のやたら強い、嫉妬深い女でね。
 兎に角旦那が四六時中自分のことだけを見てなきゃ気が済まないってんだから達が悪い。
 その男は自分の美しい妻が可愛くって仕方なかったから、はじめのうちは何でもその女の言う通りにしていました。
 派手好きの彼女の望む物なら着物でも櫛でもなんだって金に糸目を付けずに買い与えた。
 わざわざ南蛮から彼女の為に珍しい酒だの果物だの取り寄せて、自分はそれをひと口も喰わずに全部彼女に差し出した。
 戦にかり出されて遠く離れた時には、残して来た彼女がうるさいもんだから寝る間も削って日に何通も手紙を書きもした。
 それでも奥方はあることないこと見つけて来ては旦那を疑って、その度に死んでやるって騒ぎたてる。
 抜き身の刀を持ち出したり目の前で怪しげな薬を飲み下してみせたりと、そんなことをされちゃあ旦那も放ってはおけない。
 こんなのはもう悋気でもやきもちでもない。一種心の病みたいなもんだと、俺なんかは思うんですがね。
 奴もまた奥方に死なれちゃ困るってんで、奥方が勝手できないように屋敷の奥に閉じ込めて四六時中見張りをつけることにしました。
 そんな目にあった奥方ですがね、悲しむどころか内心はひどく悦んでいたらしいんですよ。
 結局自分が愛おしくってたまらないって女です。
 お可哀想な自分がなにより好きなんだ。
 旦那に思う様束縛されてご満悦だったでしょうよ。
 それでね、座敷牢みたいなその部屋に旦那が通ってくる度に、昼も夜も関係なく抱いてくれとせがむんですって。
 それもだんだん言う事が気違いじみて来て鎖で自分を縛ってくれだの、罪人みたいにむち打てだの、仕舞いに死なぬほどにひどく責めさいなんで欲しいなんて言い出すに及んでは、流石に旦那も空恐ろしくなってね。
 調度その頃、江戸の内府殿の会津上杉征伐に従軍する話が持ち上がったので、少し間を置けば奥方も落ち着くだろうとそいつは逃げ出すみたいにしてさっさと戦に出ちまったんです。

  
 旦那に置いて行かれた奥方はどうしたか。

  
 そりゃ怒り狂いましたよ。
 自分が放っておかれるなんて、夢にも考えたことがなかったんでしょうね。
 それでその女はね--この話を思い出す度に女って奴は本当に恐ろしいものだと俺なんかは思っちまうんですがね--焼かせたんです。
 戦の前夜の混乱にまかせて、家臣の男をそそのかし、屋敷ごと己を焼かせた。 
 炎の中で奥方はさぞや恍惚の極みであったことでしょうね。
 そんな死に方をしてみせれば自分を投げ出して行った旦那が後悔して苦しむのがわかっていましたから。
 旦那の苦悩する顔を想像したら、楽しくて楽しくって仕方が無かったんじゃねぇのかな。

 
 ああ、気の毒な旦那のほうですか。
 奥方に死なれてからしばらくはそりゃ随分落ち込みましたよ。
 いろいろあったにせよ、一時はあれほど惚れてた女だ。
 だがね、あれから随分たった今じゃあ憑き物がとれたみたいに温厚な男に成り果てて、家督も息子に譲って自分は楽隠居の優雅なご身分。未だに働き詰めの俺からしたら随分うらやましい。
 もともと趣味人のやつのことだ。茶だの歌だの日がな一日心静かに風流三昧ですよ。
 茶碗や掛け軸は余計な口はきかないし、放っておいても恨み言ひとつ吐かない。昨今はもっぱらそいつらにご執心でいらっしゃるそうですよ。
 いくらアンタでも、茶碗相手に嫉妬するこたぁできねぇよなぁ、ガラシャ殿?

 

 

 

 

 名を呼んだ途端に、女の顔はみるみる歪み鬼女そのものに変わっていく。

 

 喰えない奴。本当にお前は癪に障る。
 あの男に伝えるがいい。
 お前がどんなに遠国へ逃げたとて、あたしは屹度
(きっと)捕まえにいくから、と。
 それまで精々犬みたいに這いつくばって生きるが良いさ。

 

 地を這うような声を残して、その姿は跡形も無く霧散した。
 女の立っていた地面にはいまだきな臭い灰が薄く積もっているのみである。
 残された高虎は吐き捨てられた女の言葉を反すうして苦く笑った。
 他人の奥方までもがこうして現れて見せたというのに、もう独りの喰えない男、彼の本当に会いたい幽鬼は未だ姿を見せずに居る。
 


<了>
 

 

  

   

 

  

  

   

 

  

元ネタは高橋葉介御大の名作・夢幻紳士怪奇編から『針女』
これも随分古いです。初出が20年以上前..だって..?うわぁ...

一度細川夫妻で書いてみたかったネタなので満足しました
このふたりはしばりょー先生の『胡桃に酒』で読むと本当にイタい

もともと好きなせいもありますが、采配では幽霊ネタが特に多い気がします

時系列は完全に滅茶苦茶です

藤堂さんはみんなの面倒見役
細川さんとは仲良かったみたいですね