カウンターの陰に隠れてつくため息はこれで何度目だろう。
もういい加減、酸素不足だわ。
原因は手の中にある小瓶といつものソファに埋もれてシフォンケーキを頬張っているあの人。
これを手に入れたのはあれ、なんていうのかしら。薬局?でもないし、骨董屋、みたいな、おまじないグッズとか、そういう訳の分からない物をたくさん売っている不思議なお店だった。
学校の帰り道、いつも通っている表通りから少し入った路地裏にそのお店はいつの間にか出来ていた。
最初はなんだか薄暗くて、なんだか入りにくい感じだと思ったの。
でも、寂れかけた中華風の扉に好奇心をくすぐられて、足を踏み入れた中は甘くてどこか湿り気のある香りが漂っていた。
「いらっしゃいな。」
長い煙管を銜えた声の主は真っ白な顔をした女の人。細い目。細かく編まれた紅い髪。年齢は分からない。
「あら、可愛らしい方、何のご用かしら。」
「何の..って、ここ、何を売っているの?」
「なんでも。でも貴女に売る物はわたしが選ぶ。それがこの店のきまり。」
なんて勝手な。客商売をなめてんのかしら。
どうやら期待はずれ。あたしの欲しい物なんてここにはなさそう。
「貴女には、そう、これなんかきっと面白いわ。」
天井まで積み上げられたがらくたを一瞥して店を出ようとするあたしに女主人が投げてよこしたのは掌にすっぽりと収まるサイズの古びた硝子の小瓶だった。
「飲めば一日だけ、猫になれる不思議な薬。
貴女ならきっと可愛い子猫ちゃんになりそうね。」
くすくす嗤いながら女主人はまた煙管をくゆらしている。
「こんな...つまんない冗談ね。」
「信じるも信じないもお任せするわ。
お代は効果をみてからで構わない。
猫になれば、きっと人間じゃあ見られない物も見られるかも、ね。」
すっかり信じたわけじゃない。でも、その瓶の周りにはあたしの好きな百合の花が浮き彫りされていたからそれだけでも手に入れてもいいかもって、そう思っただけよ。
それに、もしかして、万が一、本当に姿が変えられるとしたら、好きな人の見たことのない姿、見てみたいと思うのは当然じゃない?
とはいえ、いかにもあやしい薬を口にするのは相当勇気がいることで。
それであたしはさっきからずっとため息をついている。
毒だったらどうしよう。麻薬とか、媚薬、だったりして。
どちらにしても今、このお店にはあたしと三成様の二人だけだ。
店長はあたしがシフォンケーキをホイップクリームまみれにしたせいで足りなくなった材料を買いに行って留守。
あたしがお使いに行くと余計な物ばかり買って来て肝心な物が無いと言って自分で出て行った。
仕方ないじゃない、スーパーマーケットでお買い物なんてしたことないんだもの。
ということで、二人きりのこのシチュエーション、瓶の中身がなんであろうとあたしを介抱してくれるのは三成様しかいない。
惚れ薬なんてものだったらいいのにな。
あたしを見た男はみんなあたしに夢中になる魔法の薬。
そんなことを思いながらあたしは瓶の中身を一気に口の中に流し込んだのだ。
遠くであたしを呼ぶ声がする。
ああ、三成様が紅茶のお代わりを呼んでいるんだ。
早く、早く行かなきゃ。
今日の紅茶はキームンベースの初芽オリジナルブレンドなんです。
ミルクティにするのがオススメで、今、ミルクをお持ちします。
「にゃあ。」
あたしが返事をした途端に随分近くから猫の鳴き声が聞こえたけど。
まさか、まさか、よね。
三成様、すぐに行きますから。
でも変よ。なんでこんなにお店が広いの。客席までが随分遠い。
それに視点がひどく低いのは何故かしら。
「にゃー、にゃぁ。」
お待たせしました、三成様。
そう言ったはずの口から出たのは子猫の鳴き声そのもの。
まさか。まさか。まさか。
あたしは慌てて自分の身体を見回す。
一番始めに見えたのは小さなシルバーグレーの手。ご丁寧に整った爪とピンクの肉球もそろっている。
次にショートヘアの背中。
ぱたぱたと忙しなく揺れる長いしっぽ。
...あたし、本当に猫になってしまったんだわ。
「猫?」
足下にすり寄った格好になったあたしを三成様の腕が抱上げる。
「お前いつ入って来たんだ?首輪してないから...野良なのか?」
前足の付け根に手を差し入れられて目線と同じ高さまで持ちあげると三成様はあたしの身体をまじまじと眺める。
ああ、お止めください、三成様。初芽の全てが丸見えです。毛皮に覆われていないピンクのお腹も、その...おっぱい...も。8個もあるけど。
一通り観察が済むと三成様はあたしの身体を膝の上に抱いてくれた。
「うわぁ、あったかいなぁ。」
うふふ、あたしもあったかいです。
三成様のお腹に顔を擦り付けると自然に喉がころころ鳴る。
背中の毛を撫でられて、目を細めてにゃぁ、なんて甘えた声をあげると三成様が微笑んでくれる。
こんなに簡単に急接近できるなんて、猫っていいかしれない。
あたしと三成様が猫ならではの至福のひとときを楽しんでいると入り口のドアが開く音がして両手にスーパーのビニール袋を抱えた店長が帰って来た。
「あれ、初芽どこにいった?
あいつ最近サボリ癖がついていかんよな。佐吉、知らないか。」
きょろきょろと店の中を見回して、店長があたしを探している。
あたしはここよ。三成様のお膝の上よ。わからないでしょうけど。
「知らない。それよりなあなあ、こいつ!
紀介のところの子か?」
素っ気ない返事。行方不明のあたしなんてどうでもいいのね。
あたしより“猫”なのね、うん、いいけど。知ってたけど。
「あ!どっから入ったんだ。毛が付く!すぐに追い出せ佐吉!!」
あたしを見た途端血相変えて叫ぶ店長。猫、嫌いだったのね。
「嫌だ!俺が可愛がるんだ!」
店長に首根っこを掴まれて窓から放り出されそうになるあたしの後ろ足を三成様が引っ張って止めてくれる。
うれしい。
うれしいけど、猫の身体は柔らかくてけっこう伸びるんだけど、流石に痛いです、三成様。
「いっそここで飼おう!猫喫茶にしよう!ここには花が無いんだ、紀之介。」
花が無いって...あたしの存在って一体..。
「いくら佐吉の頼みでもそればっかりは聞けん!今すぐこいつを連れて出て行けッ!!」
かくしてあたしと三成様は店を追い出された。
店長と喧嘩になってしまってしょんぼりと肩を落として歩く三成様の後をあたしもとてとて付いて行く。
「にゃあ。」
元気出してください、三成様。
三成様は立ち止まってあたしの方に目を向けた。
「お前、行くとこあるのか?」
ありません。初芽には三成様のお側以外に行く場所なんて。
「一緒に来る、か?」
首を縦に振る猫、なんて変だからあたしは精一杯うれしい気持ちを表す為に三成様の足にしっぽを絡めてすり寄ってみせた。
「ほら、着いたぞ。ここが俺のうちだ。楽にしてくれ。」
玄関に入るなり三成様の腕から飛び降りて廊下をリビングに向かって歩くあたしを三成様は不思議そうに見ていた。
三成様のおうちに入るのは初めてじゃない。
必要な物はみんなそろっていて、そのくせ奇麗に片付いたリビング。居心地の良い状態を保つために左近のおじさまがいつも気を配っていること、あたしにだってわかる。
「お腹すいてないか?」
三成様はキッチンに向かうと戸棚をごそごそと探している。
「これは?」
目の前に差し出されたのは固くなりかけた大福餅。
これはちょっと...それでも三成様のお気遣いを無下にするわけにもいかなくてつついてみるけど、やっぱり爪先に餅がくっついてとれなくなってパニックになるあたし。
「う〜ん、甘いのはダメか。じゃあ...。」
次に出されたのは黒っぽい厚紙のような..これって...昆布..。
「左近が良い出汁が取れるって言ってたからな。噛めば美味いかもしれん。」
三成様、生き物を飼われたこと、無いんですね。
とりあえずこれもまたお愛想程度に匂いをかいでみるけどやっぱり無理だわ。あまりにも潮臭い。
同じ海の物ならお煮干しとか、鰹節とかあるじゃない。
でも三成様はちっとも気付かない様子で腕を組んで困り果てているご様子。あたしも困ってしまう。そろそろ本当にお腹が空いて来た。
二人して途方に暮れていると玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。
「左近!」
途端に三成様は顔を輝かせて飛んで行ってしまう。
「ただいま帰りましたよ、いい子にしてましたか?」
三成様の頭を子供にするみたいにくりくり撫でながらリビングに姿を見せたのは左近のおじさまだ。
「にゃ。」
お仕事お疲れさま。お邪魔しています。
猫なりの挨拶をするあたしを見付けて、ばさり、とおじさまがコートを取り落とす。
「殿...なんですか、コレは?」
「紀之介のところからもらってきた。
可愛いだろー。ふわふわしてあったかいんだ。」
あたしを抱上げて見せつける三成様に、左近のおじさまは眉をしかめている。
左近のおじさまも猫嫌いなのかしら?
おじさまなら三成様ごとあたしを追い出すなんてこと、しないと思うんだけど。
「このマンションはペット禁止なのです。拾った場所に戻して来てください!」
強い調子で言うおじさまに負けじと三成様も言い返す。
「左近のケチ!鬼!鬼畜!サディスト!
いいじゃないか。こんなに可愛いんだし!」
「どんなふうにおっしゃられてもダメです!ダメったらダメ!!
第一、こんなに奇麗な毛並み、コイツは野良じゃないですよ。
どこかで飼われていたのが逃げ出したのかも。
飼い主が探していたらどうするんです。」
そう言われてちょっと不安そうな顔で三成様があたしを見る。
確かにあたしの毛並みはつやつやのふわふわよ。
でも初芽の御主人様は三成様だけなんです。信じてください、三成様。
「だけど...もう遅いし..明日になったら飼い主を捜すから、今夜だけでも一緒に居ていいだろ?な?」
三成様の胸にしがみつくあたしと、上目遣いでお願いする三成様を交互に見ておじさまはふぅ、と大きくため息をついた。
「仕方ない。今日だけ、ですよ。ただし、」
喜ぶ三成様の手からあたしを取り上げておじさまはあたしだけに見える角度でにやり、と笑った。
「いくら見た目には奇麗とはいえ外の生き物ですから。
左近がコイツを風呂に入れます。それでいいですね?」
いやぁぁぁぁ。水ってダメなのよぅ。プールも海も全然平気なはずなのに、今はなんだかダメな気がするのよぅ。
必死に逃げようともがくあたしはおじさまの太い腕にがっちりと抱き込まれてしまった。
「頼りにしている、左近。」
三成様はそんな一見仲良しなあたしたちをにこにこ笑って眺めていた。
大谷さんは猫アレルギー 不思議なお店のお姉さんは妲己ちゃん
|