逃れようとする身体を、羽交い締めに捕らえるべく伸ばした手が僅かに白布の端を擦って、こぼれ落ちる黒髪の隙間から覗き見た項。
 まだ病に侵されていなかったそこは新雪の如く清らかで、透けるような白さが高虎の目を焼いた。
 ふわり、と香りたつ甘く澱んだ匂い。
 彼の好んで薫き染める白檀と、身体を保つ為に用いる何種類もの薬。
 そこに体熱に気化した汗の煮詰まって混じり合うそれは、熟れた果実が腐食寸前に放つ芳香によく似て、頭の芯を痺れさせ、胸を焼き、腹の底に蟠り、ぐらりと襲う目眩に気を取られた一瞬のうちに腕の中の佳人は蝶の舞うように身を翻して逃げ去ってしまった。
 独り残されて結局何も掴めなかった己の手を見ながら思い起こす、あれは確かまだ少年の頃。
 庭に遊ぶ一羽の蝶に幼い彼は執心していたことがある。
 羽ばたく度に七色に煌めくその羽を散々に追い回し、やっと閉じ込めた掌の内。
 暗闇の中で出口を求めて必死にもがく小さな命がはたはたと皮膚を打つ様に、少年の胸の奥からふいに津波のような感情がこみ上げる。
 それは愛情というよりは、征服欲であり、独占欲であり、あまりに幼い欲情でもあった。
 唐突にその生き物を抱き締めてやりたいと感じた、彼は思いのままに掌を硬く握り締めて胸に抱く。
 音も無く蝶は潰れた。
 開いた掌から紙くずのように粉々に砕けた羽の欠片がこぼれ落ちて、彼は呆然といつまでも、鱗粉をべっとりと張り付かせた掌を見つめ続けた。

 

 

 

 
 
 それから随分時を経て。

 陣羽織の中に包み込んだ“彼”を抱えて、高虎は馬を駆けている。
たったそれだけの身の上に成り果てたのにも関わらずひどく重く、腕が抜け落ちそうになるのを耐え、何度も均衡を崩して落馬しかかり、転がり込むようにして自陣に戻ると陣幕の奥に引きこもる。
 急く心、もつれる指で結び目をほどきながら、彼の心は幼い日のままに狂おしく躍った。

 

あの時には手に入れる事は出来なかったけれど。

 

こうなっては、もう誰にも邪魔はさせない。

 

“彼”は自分のもの。

 

 はらり、と重い布の包みが解けて、そこに眠るはずのかの人の首。
 しかし、高虎の乾いた喉から登ったのは声にならない悲鳴だった。
 終(つい)に我がものとなったはずの白い顔はすっかり掻き消えてどこにも無く、代わりに見開いた目に映る視界を無数に舞い出た蝶が覆う。
 窒息しそうな羽音の陰に、まとわりつくように重いあの香りを嗅いだ気がした。
 
 
 
  

 

 
 
 自分の叫び声で目を覚ましたそこは閨の暗がりの中。
 驚いて駆けつけた宿直の者を何でも無い何でも無いのだと取り繕って下がらせて、乱れた息を整える。
 

 

 ああ、おかしな夢を見た。
 あれからもうどれほども年月が流れたというのに、なんだって今さら、彼の事を。
 それにしても、あんな、あれが夢で本当によかった。

 

 額を濡らす汗を拭おうと持ち上げた手が視界に入った途端、高虎は気を失いかけた。
 その手には極彩色の鱗粉が、障子の向こうから差し込む月の光を受けてべっとりと光っていた。 




  

  

 
   

     


おおたにさんは夜の蝶
どこからが夢だったのかは謎