狂ったように啼く馬の声。
鼻の奥に残る火薬のにおい。
ぶつかり合う刃の音。
なにもかもが恐ろしい。
悪寒にはじまり吐き気が襲い頭が割れるように痛んで、とにかくここから逃げ出したい。
前線がすぐそこまで迫っていると告げにきた物見をどうにかやりすごして、直政はまわりの者に人払いを命じる。
ただひとりきりになった陣幕の中で直政は床几から前のめりに地面に転がりそのまま頭をかかえて踞った。
戦の前、ごくたまにこうなる。
このところは随分ましであったのだけれど、今日この日は天下分け目の大戦。
戦も規模も人の数も、己が背に負う責もこれまでの比ではない。
ああ、それだからこそ、このように無様であってはならぬのに。
脂汗がぐっしょりと滲む顔面を掌で覆って、どうにか腰をあげようとしても膝が言う事を聞かぬ。
かたかたと鳴る歯の音の向こうに、直政はこちらへ近付く足音に気づいた。
見張りの兵にも止められぬところから察するにそれはきっとあの男だ。
「井伊殿。」
かくして頭上から降る声は、直政の予測したその人のものであった。
「..とうどう、どの。」
「どうせこんなこったろうと思ってね。
あんたの為にとびきりのを持って来てやったぜ。」
顔は見えぬけれど、幼子のように震える自分を見て彼は口の端を歪めて嗤っているに違いない。
「ほら、しっかりしろよ。」
高虎は直政の脇の下に手を回し、決して軽くはない身体を抱き起こして床几の上に座らせる。
「脱ぎな。脚に打ってただろ。主人に気づかれないように。」
言いながら懐の銀色のケースから取り出された注射器に直政の目線は注がれる。
「や..いやだ。それは、嫌。」
弱々しく頭を振って青ざめるのを気にも止めず、高虎は身を屈めて腰帯に手をかける。
「..ったく、手間かけさせんじゃねぇよ。」
ぶつぶつと呟きながら器用に鎧を外し、袴の前をくつろげて脚の付け根を露にする。
傷だらけの鬼の身体もそんなところの皮膚ばかりは抜けるように白く奇麗で、しかし点々と紅く刻まれた針の痕が痛々しい。
「やめて、おねが..い。」
「なあ、俺だってこんなことしたいわけじゃねぇよ?」
そんな顔されたら、まるで俺がとんでもなく悪い奴みたいじゃねぇか。
いかにも困惑した表情を作り上げてそれでも高虎の器用な指は太腿の内側の薄い皮膚の上を静脈を探して這い回っていた。
ああ、ここがいいか。
ぴたり、と指の止まった箇所に糸のように細い針が宛てがわれる。
痛みはいつだってほとんどない。
毒は血の流れに乗って驚くほどの早さで指の先までも行き渡る。
透明な筒の中の液体がすっかり体内に注ぎ込まれる頃にはもう、直政の中から恐怖は跡形も無く消えていた。
--“あれ”はもう駄目だ。
まるで楽しい夢をみている子供のように、無邪気でさえある笑みを浮かべた直政の顔を見上げて高虎はふたりの飼い主である男の言葉を思い出す。
--儂が気づいていないと思っているが、もう隠しようもない。
あれの身体の傷を見ただろう。半年も前に受けたものが未だ塞がらず膿んでおる。
限界なのだ。身体も、心も。
けれど。
一時でも幸福な夢を見れるのならば、あれも満足であろうよ。
そんなふうに語るその人は本当に彼を羨んでいるようで、何故かと問う高虎を彼はいかにも面倒そうに睨みつけてからため息をつくようにこう答えた。
--儂は夢を見たことがない。この眼を手に入れてから、もうずっと、長いこと。
「ああ、そうだ。」
用済みになった器具を箱に戻し、高虎は新しい傷痕のすぐ近くの下帯に手を伸ばす。
「ついでにこっちも処理してやるよ。」
見せつけるように紅い舌で唇を舐めて、強く脈打つそれを布の上から撫で擦る。
己にできるのはいつだってこんなことばかり。 しかし損な役回りとは思うまい。 頭上から自分を見下し笑う鬼の顔は、それこそきっと夢のように美しいのだろうから。
なにもかもがオーパーツ
まさかのF.SSパロなのでした
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