※殿が亀で、ちょっと嫌な子です
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女に子供ができたのだと、俺が気づいたのは彼女の腹が随分と膨れて来てからだった。
 こういうことに関して俺は今も昔もひどく疎い。
 でも、今度のは違う気がする。
 気づかなかったんじゃない。
 気づかないようにしてたんだ。
 目をつぶり、耳を塞いで、俺は水槽の外で繰り広げられる日常から顔を背けていた。
 だって、そこに俺はいないのだから。

 
 俺ができなかったこと。
 俺がしたかったこと。
 左近の隣で泣いたり、怒ったり、でも最後にはいつも笑いあうこと。

 
 それだけのことが今の俺に許されない。

 

--こんな女、いなくなればいいのに。

 俺はそればかり考えて暮らしていた。
 女の差し出す餌には目もくれず、後悔も無く指を噛み、彼女が部屋に居る間はできるだけ甲羅の中に引きこもって顔を合わせないようにした。
 彼女のほうはというと、日々変化を見せる自分の身体を養うのに精一杯で俺の事はさして気にもとめていないようだったが。

 

 

 

 しかし、それはある日突然おこった。

 甲羅の中でうたた寝していた俺は、ガシャン、という大きな物音で目を覚ました。
 音の方を見ると、彼女が台所のシンクにもたれて倒れており、その脇の床には割れたティーカップの破片が散らばっている。
 額をぐっしょりと濡らして、真っ青な顔の彼女は荒く息を吐いている。
 誰か呼ばなければ。
 咄嗟にそう思ったが、亀の俺はこんな時どうしていいのかわからない。
 左近、左近、大変だ。女の様子がおかしい。
 大声を上げようにもぱくぱくとくちばしが動くだけで音が出せないし、焦ってもがく脚は水槽のガラスに傷を増やすだけだ。
 早く、どうにかしなければ。 
 けれどおかしいじゃないか。俺はこの女がいなくなればいいと思っていたはずだ。
 そしてそれは現実のものになろうとしている。まさに願ったり叶ったりのはずだ。
 でも、“いなくなる”っていうのは、この女が死んでしまうってことじゃないのか。
 そんなこと、俺は望んでいない。
 左近、助けてくれ、左近。
 いつも俺は左近に助けを求めることしかできないんだ。
 そうしているうちに女は這うようにして、ダイニングテーブルの近くまで身体を移動させていた。
 カタカタと震えながらも、手探りでテーブルの上に置かれた携帯電話を取ろうとする。
 しかしその手は力なく何度も空を掻き、なかなかうまくつかみ取る事が出来ない。
 そうだ、もう少しだ。諦めるな。
 彼女の必死の行動を、俺はいつしか励ましていた。
 俺に人間の手足が無い事を歯がゆく思いながら。
 随分と長い格闘の後、彼女は携帯を手にするとようやく通話ボタンを押し、2、3言話しただけでついにそのまま気を失っってしまう。
 それから何分も立たないうちに白衣の人間たちが何人もなだれ込んで来て、彼女の身体を担架に乗せて運び去って行った。
 誰もいなくなった部屋は何事もなかったかのようにしんと静まり返っている。
 彼女はどうなったのだろう。お腹の子は。
 真っ暗な部屋の水槽の中で腹を水に浸しながら考える。
 彼女のことを知った左近はどんな顔をしただろう。
 嫌な予感が泥水のようにじわじわと押し寄せてくる。
 それらが全て俺の杞憂に過ぎないことを俺は願った。
 あの女が帰って来たら、少しだけなら懐いたふりをしてやってもいい。
 考えてみれば彼女は左近の子供の母親になるのだ。
 いつまでも俺が彼女を嫌っていては左近も、左近の子も困るだろうし。
 ほんの少しだけ、例えば餌を残さずに食べてやるとか、ひなたぼっこをしている時に鼻先はまだダメだが甲羅程度なら撫でさせてやるとか、それくらいなら仲良くしてやってもいいかもしれない。

 
 だから、どうか。

 
 この不安が幻でありますように。
 左近とあの女がまた笑えますように。
 今度は俺も、一緒に。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 




  

  

 
   

     


終わりがみえなくなってきましたorz