※左近に嫁が居ます
※あいかわらず殿が亀です
窮屈な移動用の簡易ケースに詰められて、連れて来られたところは左近の部屋だった。
広めのワンルームには口があいたままの段ボール箱がそこら中に転がっている。
左近がまだ、あの女と一緒に暮らしていない事に俺は安堵した。
--引っ越しが近いんでね、ちょっと散らかってるからお前はここだ。
一緒に買って来た水槽をサイドボードの脇に置いて俺を入れると左近はキッチンで自分の夕食を作り始める。
パスタを茹でる湯気と、フライパンでニンニクを炒める香ばしい匂い。
ひとりぶんのそれを手早く皿に盛りつけて、缶ビールを空ける左近を見ていたら俺も腹が減ってきた。
--左近、腹が空いた。何か食べるものがほしい。
水槽の壁を鼻先で小突いてやると、左近は少し不思議そうにこちらを見て、それからやっと俺の餌の事を思い出したようだった。
床に投げ出されていた紙袋から亀フードの小箱を取り出そうとして、左近はふと食べかけの自分の皿に目をやる。
--こんなものでもいいのかな。
そこから拾い上げたベーコンがひとかけら、目の前に差し出される。
--肉か!
流石左近。話の分かる男だな。
左近の指先からそれを受け取り、ついでに感謝の意味を込めて軽く甘噛みしてやる。
くすぐったそうに左近は笑って、それからしばらく俺の食事を眺めていた。
こうして左近と俺との愛の生活は始まりを告げたわけであるが、相変わらず亀の人生は退屈だ。
俺がするべき事と言えば肉体の欲求に従って餌を喰い、それを消化し、排泄し、昼寝をして時間をつぶすくらい。
たまに左近が水槽から出して遊んでくれる(といっても手足を滑らせながら木の床の上を散歩する俺を指先で突くくらいなのだが)のが唯一の生き甲斐なのだけれど、どうやら左近は忙しいらしいくそれすらも満足に時間が取れない。
平日の帰りはいつも遅く、たまの休日も一日中出かけたり電話やパソコンで誰かと話をしてばかりいる。
そんなふうだからなのか、左近はなかなか“俺”に気付かなかった。
まあ、いい。急ぐ事は無い。
これからは、ずっと一緒に居られるのだからいつかきっと思い出すだろう。
俺はそう考える事にしたんだ。
やがて左近は結婚した。相手は俺を飼おうと言い出したあの女だ。
なんとなく分かっていた事だが、良い気分はしない。
子供じみていると言われても、祝福などする気にもなれない。
俺たちは単身者用のマンションを引き払い、郊外の一軒家に移った。
そこではあの女も一緒で、俺が昼間の時間を一人で過ごす事はなくなった。
家にはいつもあの女がいて、料理だの掃除だの庭の草木の手入れだのとくるくるとよく立ち働いている。
よく晴れた春の午後、彼女が俺を庭に出して洗ってくれた。
冬の間、半分眠りこけていたせいでぬるつく甲羅を束子でごしごし擦られるのは気持ち良い。
優しい女なんだ。
それはわかっている。
でも、好きになれない。
なれるはずがない。
彼女があんまり丁寧に長いこと時間をかけて洗っているものだから、俺は少しイライラしてきて目の前を横切った指先を噛んでやった。
きゃ、と小さく悲鳴をあげて女の指から血がにじむ。
思いがけず舌先に感じた錆の味に俺の方がびっくりした。
そんなつもりではなかったのに。
ちょっと驚かしてやろうとしただけなのに。
女が血を流すのを見て、満足するほど俺だって冷たい人間-いいや、今は亀だが-ではない。
--ごめんね、もう終わりにするからね。
そう言って彼女は束子を仕舞い、水槽を整え始める。
なんだ、これじゃあ俺が悪いことしたみたいじゃないか。
その日、この頃はめっきり帰宅時間が早くなった左近が帰って来て、めざとく彼女の指に巻かれた絆創膏に気づいて、その理由を尋ねても彼女は俺の名前を出さなかったのだがそれは俺をいっそう苛立たせた。
ある日、彼女は珍しく長い時間外出し、今までに見た事の無い深刻な顔で帰って来た。
じっとソファに座り込み、ベランダの花に水もやらず、夕食も作らず、暗くなっても電気も付けずに彼女は何事かを考えているようだった。
彼女の為に駅前のケーキ屋の包みを抱えて(これはなにも特別な事ではない。左近はいつも彼女の為になにかしらの土産を用意している)帰った左近は、そのただならぬ様子に驚いた様子を見せたが、顔を上げた彼女が囁くように何事かを告げると、左近は一瞬息を止めてそれから強く彼女を抱き締めた。
手に持っていた包みが床に落ちて、中身が溢れる。
真っ白なクリームや色とりどりの果物が散らばって甘い匂いが水槽の中にまで漂ってくる。
彼女を抱いたまま左近が笑っている。
少し困った顔をして女も笑っている。
耳の奥にさざめく声と甘ったるい匂いがひどく気持ち悪くて、俺は甲羅の中に手足をひっこめた。
また続きます...
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