その猫を初めて見た時、真黒な毛並みが天鵞絨
(ビロード)のようで、しなやかで大きな身体はまるで豹(ひょう)だと直政は思った。
 南蛮にいるというその生き物を直政は実際に見たことは無い。
 無いが、きっとこのように美しいのだろうと彼は信じた。
 
  

 

 
 
 主人に捨てられ、瀕死の重傷を負って死にかけていたその猫を拾い上げて介抱したのは直政だ。
 何日も生死の境を彷徨って眠り続ける傍らに寝ずに付き添って、やっと目を覚ましたその耳元に直政は囁きかけた。

 

 

随分良く寝ていたなぁ。
あれから幾日だったと思う。
お前の飼い主はとっくにお前を捨てて国元へ逃げ帰ったぞ。
誰もがお前を死んだものと思っている。
身を呈して主人を逃し、立派に最期を遂げたのだと。
それがどうだ。
こうして憎い敵の手の内で無様に生き延びたお前を見たら、島津の連中はさぞやがっかりするだろうな。

 

 

 猫の血の気を失った顔がどんどん絶望に歪む様は直政を多いに満足させ、付きっきりの看病の疲労などはすっかり消し飛んでしまった。
 直政はだめ押しとばかりになおも付け加える。

 

 

自害しようなど夢にも思うなよ。
死ねばお前の骸を滅茶苦茶に犯して薩摩に送りつけてやる。
主人の為、家の為、死んだはずのお前は実のところ淫売の真似をしてまで命乞うて生きていたと、そう触れ回ってやる。

 

 

 これだけでもう猫は一切の勝手ができなくなった。
 生きることも、死ぬことも。
 首に輪をつけているわけでもない。
 鎖で拘束されているわけでもない。
 けれど猫は与えられた部屋から一歩も出ることができない。
 天気の良い日などは風通しの良いように障子を開け放しておいても庭先に降りようともせず、それがただの書き割りの風景であるとでも思っているかのように部屋の中からぼんやりと眺めるだけである。

 

 

 

 餌は日に2度、規則正しく運ばれる。
 それをきちんと平らげるのも猫に課された義務で、僅かでも残せば無理矢理に詰め込まれて飲み下すまで口を塞がれる。
 猫は餌をできるだけゆっくりと時間をかけて咀嚼した。
 食べ終わってしまえば他にすることがないからだ。
 暇つぶしの書物であるとか、手遊びに文字を書く為の筆や墨などは一切与えられていない。
 花も掛け軸も置物も無い恐ろしく殺風景なこの部屋に猫はその身ひとつを放り置かれて、誰も彼に構いかける者はない。
 日がな一日、猫は部屋の隅にその長い四肢を抱き込むようにして踞って過ごすことが多くなった。
 差し込む陽の光から逃れるように背を向けてうつらうつらと薄く眠るか、取り留めない思考に浸るか、猫にできることはそのどちらかしかなかったが、どちらも救いにはなり得なかった。
 考えるのは嫌だった。
 悲しいことや辛いことしか浮かばないから。
 心が浮き立つような、そんなことはもう二度とこの身に起こらないと猫にもわかっている。
 けれど無心になるのは難しい。
 ほとんど身体を動かさずにいるせいで眠りは思うように訪れず、何もかも忘れて夢に逃れることもできぬ。

 

 

 
 
 一度、眠れぬ夜に以前の飼い主のことを思い出していたらどうしても欲しくて溜まらなくなり、後先考えずに自慰に耽ってしまったことがある。
 ここに飼われてからはそれをしていなかったので、最初は触れてみるだけのはずが手は止まらず、結局全部出してしまってから猫は汚れた脚の間と掌とを見つめて途方に暮れた。
 これをどうすればいい。
 主人に見つかったらどんな言葉を投げかけられるか、想像しただけで涙がにじむ。
 けれど清めるための布も水もここにはない。
 仕方なしに指で肌にこびりついたものを刮げとり、それを舐めて飲み込んでしまうことくらいが関の山。
 溜めていたせいか濃く匂いのきついそれを口に運んでいるとひどく情け無くて、何度も叫び出しそうになった。
 何故自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。
 腹の奥からこみ上げてくるのは吐き気だけではない。
 そうして必死に苦労して隠したはずの痕跡も、翌朝自ら餌を運んで来た直政に易々と見抜かれてしまう。
 畳やら衣服やらに染み付いた匂いまではかき消すことが出来なかったのだ。
 猫のしたことは全くの徒労に終わり、それどころか隠し事を何より嫌う主人に折檻の手間を与えただけだった。
  
 
  

 
 猫はよく声もあげずに泣いていた。
 遠く離れた故郷のことや、かつての飼い主のことを思い出しているのだと直政は思った。
 二度と帰れないのならその場所はこの世に無いのと同じだ。
 二度と会えないのならその人は死んでいるのと同じだ。
 何故それがわからない。
 案外これもあの時俺が感じたほど賢くも強くもないのかもしれない。
 それがわかってしまえば大きな背を振るわせ唇を噛み締めるその様がなんとも愛らしく見えて、この猫を死なせずにおいて良かったと心から思える。

 

まあ、それも長いことはなかろうが。

 

 この猫が直政に付けた掻き傷は思ったより深く身の内に毒を刻んでいた。
 それは緩慢に、しかし深く確実に直政を侵している。
 いま、この瞬間も。
 止める術はどこにもない。
 自分が死んだ後、この猫をどうするか直政は既に決めている。
 どうせ寄る辺ない身の上だ。遺して逝くのは忍びない。
 家臣には自分に万が一のあった時、誰ひとり後を追ってはならぬと言い置いたが猫の一匹くらい供にしたとて文句を言う者も無かろう。
 むしろ気難しい主人の世話を猫一匹に肩代わりさせることができると、有り難がられるかもしれない。
 
  
  

 

 
 猫はまた泣いている。
 小さく手足を縮めて胎児のように身体を丸める姿はこうして見ればやはり猫そのものだ。
 豹などではない。
 直政が脳裏に描くように美しい生き物などでは決してない。




  

  

 
   

     


監禁小説というものを書いてみたかった
お互い別に好きでもなんでもないのでエロいことはしません。当然です
なにもされずにただ生かされているだけというのは
ものすごく精神的にクるものがあると思うのです