たった一人で生きて来た
 この世は闇だ 恐ろしくはない
 だって何も見えなければ 誰が隣にいたってわからないじゃないか

 

 

 

 

 最初に色事を三成に教えたのは少年の頃預けられた寺の坊主達だったが、それを我が物として利用したのは自ら選んだことだった。
 戦場の武には何の役にも立たぬこの面の皮も、色事に惚けた相手には役に立つ。
 だから、あの男も簡単になびくと思っていた。
 山崎で援軍に駆けつけた、島左近と名乗ったあの男。
 自分がお世辞にも戦上手とは言い難いことを三成は身にしみてわかっている。
 だが気に病むことではない。足り無ければ補えば良いのだ。
 手間をかけて米を育てるように、銭を払って馬を買うように。何かを手に入れようとする時には代償を支払わなければならない。
 その代償に我が身を求められたから。だから支払う。
 それだけのこと。
 なのに、何故。

 
「やめだやめだ。」
 

 押し掛けた遊郭の一室で、隣室にしつらえられた羽二重に押し倒され、着物を乱暴な手つきではぎ取られるところまでは覚悟していた、というよりも計算通りだった。
 それを突然止められて驚いたのは三成の方だった。
 頭をぼりぼりと掻きながら島左近は吐き捨てるように言った。
 

「興がさめちまったんですよ、お殿様。」
 

 先程まで遊女たちを侍らせていた部屋に戻り、どっかとあぐらをかいて再び杯を口に運ぶ。
 何が気に障ったのか知らないが、もう自分を抱く気はないらしい。
 三成は乱れた着物を直すと立ち尽くしたまま男を見た。
 

「あんた、どの男にも、いいや、誰にでもそんな顔をしてるんですか。」
 

 確かに自分が一部の輩には横柄者と呼ばれ、決して好意を持たれていないことは知っている。しかし眼前の男はそれを承知の上で一度は自分を主人と呼んだのではないか。
 左近の言う言葉の意味がその時の三成にはわからなかったけれど。

 

 

 

 

 召抱えてみると確かに島左近は優秀な男だった。
 軍略に長けているのは言うまでもなく、その人柄も三成の好みから実直な、言葉を代えれば融通の利かない者の多い石田家中においては柔軟で物事の通し方が巧い。
 あれからは身体を求められることも無かった。
 二万石で自分はこの男を買ったのだ。安い買物だったではないか。
 仕事さえこなしてくれれば言うことも無い。三成はそう思うことにして、気にもとめなかった。
 その夜、までは。

 

 

 

 

 城から屋敷までの道を三成は急いでいた。
 自分の提した案に反対する幕僚たちを説得するのに思いのほか時間を費やしてしまった。
 三成でもこういう時は流石に自分の性格に嫌気がさす。もし、あの男なら、と飄々とした家老の姿が目に浮かび慌ててかき消した。
 辺りは既に夜の闇に閉ざされて人の影も無い。
 今日に限って供回りの者は足軽に草履取りくらいのもので、いつもよりはるかに軽微だった。
 自分を良く思わない者はそれこそ掃いて捨てるほどいる。あわよくば消してしまおうとさえする者も。自分がそちらの立場だったらこんな時こそ絶好の機会ではないか。
 嫌な予感がして三成が馬脚を速めようとしたその時。
 

「石田三成とお見受けする!」
 

 声と共に街角から顔を覆面に包んだ集団が姿を現したのだ。
 白刃をきらめかせ、じりじりと間合いを詰めてくるその様は忍びの者とは思えない。れっきとした武士のようだった。
 

「殿!お逃げくださいませ!」
 

 そう叫んで腰の物を抜こうとした足軽がまず二、三人に囲まれ、袈裟懸けに斬られた。
 続いて腰を抜かし、地面に這いつくばっていた草履取りの血が馬上にまで降り掛かり三成を濡らす。
 

「くそっ!」
 

 まずはその場を逃れようと、馬首を廻らそうとした三成の前にも数人の男が立ちふさがりその退路を阻んだ。
 驚いた馬が前足を上げて高く嘶く。
 

「あっ。」
 

 地に放り出されて、それでも三成は素早く立ち上がり刀を抜いた。
 自分の武の不得手は嫌というほどわかっている。こうなってはどれだけ時間を稼げるか。けれど一太刀も相手に浴びせぬまま躯と成り果てるのだけは嫌だった。  
 夜目に見えるだけでも十数人の男達が自分を取り囲んで構えている。絶体絶命とはこういうことを言うのか。戦場でも味わったことのない冷たい汗が背を伝った。
 

「お覚悟!」
 

 一人の男が切り込んで来たのをかわし、次を見極めようとした三成の耳に馬の駆ける蹄の音と聞き覚えのある男の声が響いた。
 

「殿ぉ!!」
 

 背後からのその声は三成にとってまさに天からのそれとして聞こえた。
 

「左近!」
 

 戦場では鬼と呼ばれた男は馬で囲みを突き破り、三成の隣に踊り込むと愛用の大刀をふりかざし、勇猛に斬り掛かっていく。
 三成が一歩も動けないまま見守る中、白い羽織が踊り、次々と血飛沫があがった。
 嵐に吹かれた草木のように曲者たちが地に伏していき、とうとう主犯格の男が斬られるに及んで、残りの者達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまった。
 

「殿、ご無事で何より。」
 

 刀を収めた左近は息一つあがっていない。
 

「お帰りが遅いので迎えを出そうとしていたところでした。
 間に合って良かった。」
 

 三成は声を出さない。自分の気付かぬうちにどこぞに傷でも負ったのかと思い、左近は問いかけた。
 

「殿?」
 

 もの言わぬ身となった主犯格の男のそばにしゃがみ込み、三成は額を割られた死骸の覆面を取り除いて顔を確かめていた。
 

「この男...。」
 

 苦悶の表情に歪んではいるものの、三成はその顔に確かに見覚えがあった。
 

「ずっと..ずっと我が家に仕えていた...それが何故..。」
「大方、金で雇われたのでございましょう。
 殿のお近くに仕える者なれば、動きもよくわかっておりましょうからな。」
「そんなに俺が憎いか!何故だ、何故、皆、俺を忌み嫌う!!俺は..俺だって..」
 

 それまでに左近が聞いたことも無い悲痛な叫び。
 左近はそこに初めて冷徹と言われる主人の身の内に流れる血汐を見た気がした。
 

「殿..。」
 

 肩に置かれようとした手を振りのけて三成は叫び続けた。
 

「お前だってそうだ!
 俺に仕えたのとてどうせ二万石に目がくらんだのであろう!
 それよりも多くの禄を出す者があれば俺など簡単に裏切るのであろう!」
「...殿。」
 

 地の底から響くような冷たい声に三成は我に返る。
 

「それ以上おっしゃるならこの左近とて限度があります。」
「あ...。」
 

 また、怒らせてしまった。
 取り返しのつかないことを言ってしまった。
 死骸から立ちこめる血の匂い。それが左近自身から発せられる怒気と合い混じって、三成の身を凍らせた。

 

 

 

 

 自分の羽織は返り血で濡れ、何故だか敵を斬ったはずの左近の羽織は奇麗なままで、三成はあらためてこの男が武の達人であったことを思い知らされる。血の付いたそれを脱がし、左近は自分の羽織を脱ぐと主人に頭からかぶせかけた。
 小柄なその身を馬上に担ぎ上げて手綱を廻らす。腕の中の人は小さくなってカタカタと震えている。噛み合ぬ歯の根の音が蹄の間からも聞こえてくるようだ。人が見れば若い娘をかどあかした盗人とでも思うかもしれない。
 自分にすがろうとしない主人が落ちぬよう、けれど出来うる限りの早さで屋敷に帰り着くと、左近は主人を抱えたまま足音を荒げて奥の三成の私室を目指した。
 その尋常ではない様子に幾人かの家臣が追いすがって来たが左近に一喝され引き下がってしまった。
 もう誰も彼を止められないのだ。
 三成の目には左近がその通り名のように本物の鬼と映った。
 その鬼ももはや自分を見限ろうとしている。
 鬼にまで捨てられて、人の世界でいかに生きていけよう。また、あの暗い世界に取り残される。
 ならばいっそ、最期くらい骨も残さず喰らって欲しいのだけれど。
 叩き付けるように襖を開けて、遅い主人の帰りに備えてしつらえられていた褥に身を投げ出される。
 役目もこれで仕舞い、とばかりに灯火も無い闇の中に自分を残して背をむけた男に三成は声を絞った。
 

「さこん!」
 

 怖い。
 単純にそう思った。
 答えの返る保証も無く、名を呼ぶことがこんなにも怖いだなんて。
 

「いかないで..くれ..。」
 

 情け無いほど、声が震えているのがわかる。
 ここで行かせてしまったらもう二度と戻れなくなる。いくら人の心の機微に疎い三成にもそれくらいのことは知れた。
 初めて向き合った遊里の夜とはまったく違う、心を引き絞られほど切なくこの男を欲している。
 後ろ手を襖の金具にかけたままで左近は言った。
 

「後悔、なさいませぬな。」
 

 逡巡する間もなくうなずいた自分が左近には見えていたのだろうか。

  
  

  

   

   

    

    

    

   

    

  


  

前振りが長くなりました
エロパートは後編に全部丸投げ!