あの頃のわたしは本当に子供であったけれど、それにしてもそのわたしをあの人の元へと引き立てていく貴方が本当に鬼のように思えて、このまま頭から骨も遺さず食われてしまうのではないかと恐ろしくてたまらなかったものです。
 

 
男の背に乗せた軍靴の足に自重を加えながら彼女は懐かしげに少女の時を語り出す。
油汗を滲ませて丸まった男の背には規則正しく骨が浮いて瑕の一つも見当たらず、代わりにあちこちに散らばる鬱血の跡は彼女の苛立を募らせた。
こうなった直接のきっかけはふいに見上げた彼の襟元にその一つをみつけたことであるけれど、遅かれ早かれこんなふうになることは二人ともにどこかで予感して、二人ともに気づかないふりでここまできた。
思えば高い高い崖の上を突風を恐れて渡るような、危うい綱渡りを随分と長いこと続けていたものだ。
それは彼女があどけない花嫁の姿で直政の前に現れた時から始まる。
これまで主人が迎えた妻たる人達は年嵩の熟れた女ばかりであったので、この新しい奥方に直政は少し戸惑った。
 
果たしてこの娘にお役目務まるや否や。
 
心配はまさしく当たり、初夜の閨から漏れ聞こえるのは助けを求めて泣き叫ぶ悲鳴、それからの後に幼子のような啜り泣きばかりで、彼女が女としての幸せをその身に味わったとは到底思考えられなかった。
この有り様では主人もさぞや興ざめであろうと思ったが、この初すぎる娘の何が気に入ったのか主人は夜毎に彼女を閨に召し出そうとする。
その度に彼女は気分が優れぬだの月の障りだのと言っては逃げ回り、呆れ果てた主人があの子があまりに可憐であったのでどうにも我慢がきかず無体をした。もう何もせぬからせめて夜通し語らいたいそれ甘い菓子などもあるゆえにと宥めるのを硬く閉ざされた襖越しに伝えたところで天岩戸はなお開かない。
結局その夜も一人きり、冷たい布団の上に干菓子の乗った懐紙を置いて苦笑うしかない主人の姿を見て、直政は我が身を嬲られるより許し難い激しい恥辱を感じたのだ。
自分ばかりが特別だと信じて疑わず、少しでも甘い顔をすればどこまでもつけあがる。
それは女の、特に歳若で見目良い女の悪癖だ。
一度誰かがきつく教えておかねば成らない。
お前など少しばかり毛色の珍しい、雌の猫の仔にすぎないのだと。
すわ戦かとすれ違う人々がおののくほどの剣幕で奥に渡り、直政は彼女の居間に踏み込んだ。
侍女が声をあげて腰を抜かし、何人かは気丈にも追いすがって彼を止めようとしたが他愛も無くはじかれて床に転がる。
当の彼女は丁度寝支度をしているところで腰まで伸びた髪を梳かせていたが、ただならぬ形相の直政を見ると咄嗟に不穏を悟り、身をよじらせて後ずさった。
 
「殿がお待ちです。お早く。」
 
我ながら驚くほど冷たい声でそう言って畳の上に根を生やしたようになっている細い手首をつかみあげて、それでもなお彼女は頭を振って見せるだけでその場から動こうとはしない。
 
「嫌です。嫌。勝はもうあのようなことはしたくありません。どうか、お許しください。わたしを連れて行かないで。」
 
仕方なく無理矢理に横抱きに抱え上げたその身は薄く軽く儚く、硬い骨ばかりで少しの肉も感じないそれはまるで髑髏のよう。
 
「あれがどんなに痛くて苦しくて辛いことか、あなたは知らないのよ。わたしは何もわるいことなどしていないのに、なんでこんな目に遭うの。どうしてもあの人のところにいかなくてはならないのなら、ねぇどうか、貴方からあの人にお願いして。もうあんな酷いことはしないでくださいって。」
 
彼女はもう逃げようとはしない代わりに、直政の腕の中で小さな身体をさらに小さく縮めて嗚咽を漏らしていた。
目の当たりにした幼さ故の愚かさに直政の怒りはすっかり熱を失い、代わりに憐憫の情が胸の奥に滲み出す。
頭を包込んだ右手を落ちる髪に添ってほんの少し滑らせると、指先に触れる頸骨の鋭い窪みに誘われる。
あまりに蒼く未熟で無知に過ぎて、これでは遅かれ早かれこの女は潰れる。
消えてなくなるその前に、いっそこの手で喰ろうてしまおうか。
そんな衝動に駆られたその時、落とした視界に寝間着の裾が割れてむき出しになった真白い脚と、指をぐっと内側に折り詰めたつま先。
 
ああ、いけない、これはあの人のものだった。
勝手にしては叱られる。
危うく取り返しのつかない失態をやらかすところであった---。
 
鑞で作ったような甲に青く浮いた血管が健気に息衝くの見て直政は我に返ったのだった。
 
  

 

 
 
その足は今、直政の上にあって彼を邪鬼のように踏みつけている。
成る程一度は疑った主人の目はやはり正しく、彼女は美しく強くそうして相変わらず愚かなままに、鬼の贄にふさわしい女に成った。
あの時、猫の仔の一匹や二匹喰ろうたところで腹の足しにもならなかったであろうし、それで腹など壊しては割の悪い話だった。
 
けれど、井伊殿。勘違いしないでくださいね。
わたしは貴方を怨んでいる訳ではないのですよ。
今なら分かります。あれはわたしが浅はかでしたもの。
だから、これは、別。
 

 
「あんたなんかにあの人を渡すものか。」

 
 
可憐も無垢もかなぐり捨てて唾棄するように言い放った、彼女の芯にはまだあの細い骨が眠っているのだろうか。
背に感じるのは靴裏の無機な皮ばかりで、それを推し量ることは出来ないけれど。
これでやっと、喰らい付くことができる。
まずは始めと顔を上げ、直政は背から振り落とした女の足先に噛み付いた。
 
 




  

  

 
   

     


でもなにもおこらない
どこまでいっても平行線なふたりです