夢の中なら彼に会える。

 

 

 

--殿。

 低い、いつだってどんな時だって落ち着いた声。

--殿、聞いておいでか。

 ああ、すまない。お前の声に聞き惚れていたのだ。

--まったく。殿は..。

 苦々しく笑って。

 左近、俺の名を呼んでくれ。

--殿。

 ちがう。俺の名だ。

--...みつなり...さま。みつなりさま。三成様。

 左近。さこん。...さ..こん。

 彼と再び会うまでは生きると決めたのは自分だから、弄ばれ穢されるこの身の上を女々しく嘆いたりはしないけれど。
 果たして、あの声が再び自分を呼んでくれる時が来るのだろうか。
  

 

 

 

 

 

 男の振るう大刀が王の兵たちを次々となぎ倒していた。
 返り血の狭間、男の黒く長い髪が空に舞い、ぎらぎらとした瞳が次の敵を捕らえる。
 “これ”があの“玩具”の情人か。
 水鏡に映る男の姿を王はまじまじと見つめた。
 人間達の軍が王の住むこの城を取り巻きつつあるという報は王の耳にも届いていた。
 その先鋒を“これ”が務めているらしい。
 確かに人としては強い。
 軍略の才もあるらしい。
 ただ、自分を葬る役どころにはいささか足り無い気がする。
 そもそも彼の目は王を目指してはいない。

--どうぞ、兵にご指示を

 兵の統率を任せている男が王の前に進み出て命を乞う。 
 自分で始めた遊戯であるのに、手詰まりになりつつある今になって何もしようとしない王に兵達は戸惑っていた。
 王がほんの少しでも本気になれば人間などという脆弱な生き物はひとたまりもないはず。それなのに王妃は虜とした玩具に構いきりで、王は物憂げに水鏡を覗いてばかりいる。

--このままでは...!

 下がれ、と指先で示したにも関わらず言い募る男に王は軽く苛立ちを感じて、そのすぐ後には彼の身体はまっぷたつになって床に転がった。
 鏡の中でも目の前でも、自分の兵が血を流している。
 王とて自分の彼等を愛していたはずだった。
 自らも大鎌を手に彼らを指揮して、そんな自分の隣で殺戮に微笑む王妃がいて、それがこの退屈な王の心を唯一沸き立たせた。
 人間のいう幸福というものが、許されるのならきっとこの満ち足りた気持ちのことなのだろうと思ったりもした。
 少なくとも王はそうだった。

 けれど、王妃は?
 世界の全てをと望んだあの女は?

 人間の男を玩具と呼んで嬲る彼女は、自分の笑みがどこか引きつって歪んでいる事に気付いていないのだろうか。
 満たされている者はあんなふうには微笑まない。
 同じ地獄を見て嗤いあっていたはずの彼女の幸福を王は今、初めて考え、そんな自分に少し驚いた。
 やっと訪れてくれそうな終わりを目前にして感傷的になっているのかもしれない。
 あの女に玩具が必要であるように、あの女自身も王の暇つぶしであったはずなのに。

 

 

 

  

「もう、“あれ”に構うのは止めよ。」

「なんでよ?遠呂智様だって楽しんでくださったでしょう。
 素敵な玩具だって、そうお思いになったでしょう。」

 髪を振り乱して叫ぶ女の反応はほとんど思い描いていた通りで王は思わず唇の端に笑みを浮かべた。
 見慣れた嘲笑ではなく、初めて知る慈しみのそれに妲己の身体が強ばる。

「寂しいのか。」

「違うわっ、違うわっ!!」

 伸ばした指先を払いのけられ、王は仕方なく身をよじる女を力づくで抱き寄せた。

「違うって言ってるじゃないの!!
 寂しいなんて!そんな..まるで、私..人間みたい、じゃない..。」

 包みこんだ腕の中で女の動きが弱わっていくのを感じる。

「お前は..人だ。」

 静かに耳元で告げられた言葉に女の肩がびくり、と震えた。

「...嫌よ。
 ねぇ遠呂智様、なんでそんなことをおっしゃるの?
 私のことが嫌いになったの?
 私のどこがいけない?
 あんなものに夢中になったから?
 だったら言う通りにする。
 もう人間なんて飼わない。あれは始末するから。だから..」

 私を、捨てないで。

 嗚咽まじりに乞う女の顔を見ずに済むように。
 王はその大きな手で彼女の小さな頭を自らの鎧を着けていない胸に埋めた。

「私は貴方と同じ...でしょう?そうでしょう?」

「違う。お前と私は、違う。」

「嘘よ!!」

 女とは思えないほどの力が胸板を叩く。

「あいつらが来るから弱気になってらっしゃるのね!?
 私、平気よ。
 二人して殺し尽くしてやりましょうよ。きっとすごく楽しいわ。」  

 殺戮を語る瞳が獣のように熱を帯びてギラリと光り、やはり、これは人ではないのだと王は思い知る。

 人でなく、さりとて魔に生まれた身には遠く。

 彼女をそうしたのはまぎれも無く王自身。

「妲己...いいや、人間の娘よ。お前をこのように作った我を許せ。」

 王は彼女と出会った時のことを思い出す。
 あれは本当に気まぐれだったのだろうか。
 あの時、空虚に乾いた憎悪に身を焼かれていた彼女に王は自分の姿を重ねた。
 そんな彼女が再びの生を得て何を望むか見てみたかった。
 彼女が傍らにあることを望んだのは、彼女自身よりも何よりも自分ではなかったか。

「そんな..酷いことを言わないでよ..。
 私を置いて行かないで。
 私を独りにしないでよ。」

 声は頼りなく掠れて痛々しくて、まるで傷ついた子供のようだった。
 こんな女の姿は初めて見る。
 孤独に蝕まれかけていた私を救ったのはお前だ。
 憎悪の果てに私が得たのはお前だった。
 私は独りではなくなっていた。

 けれど、お前は。
 
「独りにはしない。」
 
 償いをお前に遺していこう。
 決して壊れない玩具。
 決して訪れない孤独。
 決して失われない愛情。

 差し伸べられた手を、妲己はもう拒まなかった。

 

 

 

 

 

 魔王の首級をあげたという声が遠くに聞こえる。
 隆盛を誇った蛇の王も人間たちの結束の前についに滅び去った、なんてそれこそ昔語りのお伽噺のようだと左近は思う。
 あまりにあっけなく、まるで滅びを自ら望んでいたような最期。
 先手を切ってこの城に乗り込んだはずの左近はその場に居合わせることは無かった。
 この異世界において武功などというものは何の価値も無い。
 左近の目的はただ一つ。
 いまだ捕われてままになっているはずの主人を見つけ出すこと。ただそれだけの為に戦に身を投じてきたのだ。
 遠呂智の軍から寝返って来た人間、曹丕やその配下たちから得られた情報は左近を幾度も打ちのめした。
 曰く、あれは魔王の妾の慰み者にされている。もはや人の形をとどめているかどうか。
 それもこれも、全ては自分を慕って軍を抜け出そうとしたその謀のせいだと聞き知るに至っては身を焼くような焦燥に捕われた。
 早く、一刻も早く助け出さねば。
 愛しい主人に会いたい。
 自分の名を甘えて呼ぶあの声を聞きたい。
 その思いだけに駆り立てられてここまで来た。
 
 敗北を知った兵が我先に逃げて行く。
 それを追い散らすようにしながら左近は城の奥まで足を進めていた。
 壁や天井を飾る装飾が華やいだ一角。幾重にも天蓋に覆われた部屋の奥から漏れるうめき声が左近の足を止める。
 荒い、獣じみたいくつもの咆哮の中、微かに混じる聞き覚えのある悲鳴に引き寄せられて左近は夢中で天蓋をかき分けた。

「っ..!!」

 そこにあった光景に、左近はほとんど無意識のうちに刀を抜いて振るっていた。
 ごとり、と音がするたびに、悲鳴を上げる間もなかった兵の首が床に落ちて転がり、辺りに強く血の匂いが立ちこめる。

「さ..こん?」

 弱々しく呼ばれた名に左近は我を取り戻した。

「殿..。」

 見下ろした先。恋い慕う主人の姿。
 一層痩せた肌は青白く、所々に言いようの無い傷を刻まれて、あられもなく脚を開いた格好のまま返り血と淫液に全身が濡れている。
 散々に嬲られたであろう脚の間は前も後ろも左近の知る頃とは別物のように無惨に腫れあがっていた。

「さこん..お前..やっ、いやぁ!!」

 抱き寄せようと身を乗り出した左近を、三成は痩躯にこれほどの力が残されていたのかというほどの力ではね除けた。

「来るなっ!俺を見るな!!」

 狂人の如く叫んで三成は部屋の奥へと後ずさる。

「殿..よくぞ、ご無事で..。」

「無事でなどあるものか!!」

 左近の視線を逃れるように自らの身を抱き締め、乱れた髪に顔を伏せて。

「この身..この壊れた身体では...もう人の世に戻ることは叶わぬ。
 お前にもう一度会うまではと生きながらえて来たけれど...」

 やっと、会えた。
 三成は顔をあげて、ありったけの力で微笑んでみせる。

 そして---残された最期の刃、その真珠の歯を舌に突き立てた。

 鉄の味が口の中に広がる。
 不思議と痛みは無かった。
 末期には苦痛さえ感じなくなるのか。
 さればここは冥府への旅路かと三成は固く閉ざしていた瞼をゆっくりと持ち上げる。
 光を感じる視界、そこに映ったのは地獄でも極楽でもなく。

(左近。)

 呼んだはずの名は口一杯に含まされた指に、音にならなかった。
 舌とは違う骨のある肉。己がものと思っていた血はそこから湧き出ている。
 触れることをあれほど焦がれた、左近の指から。

「殿、馬鹿なことを。」

 間近に寄せられた顔が悲しく笑っている。
 何故。
 視線で問うた、その答えは。

「舌を無くせば、もう左近の名を呼んでいただけませんからな。」

 馬鹿はお前だ、左近。血が止まらぬではないか。もういい。放せ。

「二度と、左近の前でこのようなことはなさいませんね。」

 必死で首を縦に振る。 
 しない。だから、早く、指を。
 ゆっくりと咥内から出て行く質量。

「左近..。」

「殿。殿。三成様。お声をお聞きしたかった。もっと、呼んでいただけませぬか。」

「左近、左近、さこん...。」

 口に残る血の味と、流れ込む涙とに嗚咽が入り交じって酷い味だったけれど、三成は喉が潰れるまで呼び続けた。
 夢にまで叫んだその名を、今はその人の前で。 

 

 

 

 

 

 
 崩れかけた玉座、かつて王のものだったその場所に彼女は気怠く身を持たせかけている。
 そこから眺め下ろす世界には灰と瓦礫と屍だけが横たわっていて、いつかどこかでこんな光景を見た気がしたけどそれが何なのかは思い出せなかった。
 王の消滅と共に世界は均衡を取り戻し、人間達は本来あるべき時と場所へ還された。
 お気に入りの遊戯は出来なくなってしまったけれど、ちっとも寂しくはない。
 彼女はそっと自分の身体に触れてみる。
 容易に身動きも取れないほどに育った腹。
 その中から何が生れ出てくるのか彼女には想像もできないけれど、何にしても愛おしいことに変わりはない。
 だってこれは彼女を独りにはしないと誓ってくれた王の証なのだから。

「可愛い子、疾く私にお顔を見せてちょうだいな。
 そして一緒に遊びましょう。」

 割れた爪先で撫でてやると、それに答えるように腹は大きく波打った。

 彼女の為だけに閉ざされた世界の果て。
 邪魔する者も止める者も、誰もいない。

 何もかもが満たされてその上この先をとても楽しみに思うだなんて、これを幸福と人は呼ぶのだとしたら、私は今、間違いなく幸せなのだわ。

 虚空に向かって無垢に微笑む彼女にとっては、この幸福を彼女に遺した蛇の王のことも、あれほど執心した玩具のことも、夢の中の出来事のよう。砂に帰す廃墟のように少しずつ忘れ去っていずれ跡形も残らない。
 誰も知らない彼女の幸福が産声を上げようとしている。

fin.