病が進みいよいよ視界に陰りが見え始めた頃、大谷吉継は都で一番と名高い絵師を屋敷に呼んで屏風を描かせることにした。
事情を知る絵師はそれならばと腕を振るい、瞬く間に出来上がった屏風絵を吉継も大層気に入って、常に側に置いては日々眺め暮らしているという。
その話を人づてに聞いた藤堂高虎は自分もそれが見てみたいと思った。
いかにも欲の薄そうな彼の人が執心する絵とは一体どんなものなのか。
好奇心のままに屋敷を訪ね来て、その屏風を一目見るなり高虎は眉をしかめた。
「こいつは趣味が良すぎやしないか、大谷殿。」
六曲一双に綿々と綴られた、それは地獄の光景。
十王の居並ぶ前に引き立てられて罰に苦しむ亡者の姿。
鞭を振りかざす牛頭馬頭どもに追われながら針の山に登る者。
燃え盛る炎の海に溺れる者。
生きながら腹を裂かれはみ出した腸を鴉に突かれる者。
まるで絵師自身が地獄に赴いて見聞きして来たかのように仔細に描かれた画面からは、耳をすませば文字通りの阿鼻叫喚が聞こえてくるようにさえ思われる。
確かに見事な出来ではあるけれど、同じあの世を眺めるならば極楽浄土にすれば良いものを、なんだってこんな気味の悪い絵をと問うてみれば吉継は呆れた顔をしてみせる。
「自分が辿り着く果てがどんな場所か、知っておきたいと思うのは当然ではないか。
それとも藤堂、まさか君は自分が極楽往生する気でいるのか。」
自嘲気味に笑って屏風に近付き、手袋を外して紅い業火をさも愛おしげに触れてみせるその指先に以前のような生気はもはやない。
彼の視力が周囲が知るよりも随分弱まっていることに高虎は気付いていながら、しかし当人の前では知らぬ振りを通していた。
吉継は露骨な気遣いや同情をなにより嫌がるからだ。
自ら望んで描かせたこの絵も、もうはっきりとは見えていまい。
だからこそぼんやりとでも光のあるうちに脳裏に焼き付けておきたいと考えているのだろう。
薄暗く灯を落とした部屋の中で、炎の海に縋る吉継の姿を思い浮かべて、高虎の胸はきつく締め付けられる。
「なあ、あんた、そんなものばっかり見ているなよ。」
--十万億土の遥か彼方より、今ここにいる俺を見てくれよ。
叫びを押し殺して布越しでも薄さの分かる肩に手をかけて振り向かせ、そのまま抱き寄せた彼の身体はいっそう軽くなっていた。
開けさせた胸にはくっきりと肋が浮いている。
唇を寄せた肌にも以前のような弾力はない。
少しずつ、少しずつ。その人は遠くへいってしまう。
この腕の中から溢れ出るように。
それが留め得ぬことだとしても、ほんの僅かでも長く引き止めておきたくて高虎は抱く腕に力を込める。
「苦しい、藤堂。」
微かに呻く声に聞こえぬふりをして、戯れに歯を立てた首筋の向こうには真っ赤な地獄の鬼がこちらを凝視していた。
--渡すものか。
今はまだ、これは俺のものだ。
鬼の目からその人を隠すように、高虎は畳の上に倒した痩躯を我が身で覆う。
顔の輪郭をなぞっていた指を喉へ、鎖骨へ、胸へ、順に降ろしていく。
崩れはじめた肌を確かめられるのを好継は身をよじって拒絶するが、最後は大人しく受入れる。
諦めもあろうが、要は触れられるのが心地よいのだ。
この肌に触れるのはもう自らの手の他には高虎しかいないのだから。
「藤堂、はやく。」
乞われるままに高虎は下肢を割り開いた。
薄暗い室内のせいでそこがどうなっているのか、目で見ることは出来ない。
けれど暖かく湿った淫美な匂いが香り立ち、吉継の持て余す熱を隠しようもなく伝える。
「もうこんなになってるな。いつからだ?」
裾の奥をまさぐりながら耳元に唇を寄せて囁いた高虎の声は、自身でも驚くくらい掠れていた。
「俺が来たときからか?
それともあんた、こんな絵に欲情するのか?」
問いには答えず、はやく、はやくとうわ言のように呟くのには聞こえぬ振りをして、熱い幹を扱きあげるとそれはすぐにぐちぐちと水音を立てはじめた。
実に素直な反応に高虎は内心眉をひそめる。
吉継の中には加虐趣味と被虐趣味が混在していて、それは病が深まるごとに煮詰まっていくように感じられた。
この屏風絵にしてもそうだ。
地獄を眺める吉継はそこに自らの姿を重ね見ている。
彼は絵の中で亡者を虐げる鬼になり、同時に虐げられる亡者になる。
そうしてその前で男に抱かれることに、このうえも無い歓びを感じている。
例えば地獄の炎を凌ぐほどの熱情で焼き尽くしてやれば、彼を救うこともできるのだろうか。
そう考えてみても、高虎にはその一歩が踏み出せない。
踏み出せばそこには奈落が待っていると知っているから。
「藤堂、君は存外臆病..だ..な。」
高虎の心中を察したかのように床に黒髪を広げた吉継が囁いた。
薄く笑う挑発のままに乱暴に足首をつかみ上げ、指先で二、三度その箇所をなぞると高虎は一気にそこを指し貫いた。
挿入は意外なほどに滑らかに進んだ。
前からしとどに流れ伝う淫液と、吉継自身の手によって事前に施されていた準備のお陰で。
「ぅっ..ぁ。」
自身を包込む内壁のやわかさと熱に、高虎はたまらず吐息を漏らす。
「ふ..ふっ」
眼前で唇を噛む高虎に吉継が満足げな笑みを浮かべた。
「、っくしょ..ぅっ。」
予断無く絶妙な具合で締め上げられ、それを振り払うかのように高虎は腰を強く打ち付けた。
玉の汗が飛び散るのと同時に肉のぶつかり合う音が響く。
病身を気遣う余裕はもはやありはしない。
「ぁあっ、と、うどう..、くるし..ぃっ」
悲鳴とは裏腹に骨の浮く腕が背に絡み付いて引くことを許さない。
気を許せば飲み込まれる、これは奈落だ、と高虎は思った。
恐れていたものはこんなに近くにあった。
底なしの口を開けて獲物を待ち構えていた。
怖くて怖くてたまらないが逃げることは叶わない。
高虎には恍惚に染め抜かれた吉継の顔が一瞬、屏風の中の鬼に重なって見え、まるで自分が屏風絵の中に閉じ込められているような気がした。
それから随分して時勢は移り、日の元を分つ大戦を前にして吉継と高虎もまた敵味方に分たれた。
己に残された時間と守るべきもの、何もかもを天秤にかけたうえで吉継自身が下した決断に、自分の介入する余地などないとわかっていたつもりでも、現実を目の当たりにしてみれば胸にせまる遣る瀬無い想いは度し難い。
彼の顔を見れば無様に追いすがってしまいそうな気さえして高虎には都の屋敷を引き払って領地へと帰る吉継を見送ることはできなかった。
もはや今生での再会は叶うまい。
そんなふうに諦観していたところへ一通の文が届く。
寄越したのは当の吉継。
曰く、屋敷にひとつ忘れ物をしてきたから次に会うまで預かっていてほしい、と。
気乗りがしなかったがこうして文まで寄越されては見て見ぬ振りをする訳にもいかない。
高虎は自ら出向いて猫の子一匹残っていない屋敷を見て回った。
主人のいないそこは誰に見られても恥のないよう庭の隅までも整然と掃き清められて、吉継がもう二度とここに戻るつもりがないことを示している。
ここまでしておいて『忘れ物』とはとんだ言い草だ。一体どんな厄介を押し付ける気なのだろう。
屋敷の一番奥、かつて吉継の私室だった場所に足を踏み入れた高虎はそこで件のものを見つけた。
全ての調度が運び出されて何も無い部屋の真ん中、顔が映るほど磨き上げられた床の上に炎の踊るが如く、あの屏風絵が真っ赤な両腕をいっぱいに広げて高虎を待ち詫びていたのだ。
--選りにも選ってこれを俺に遺すか。
まったく、あんたは喰えない男だ。
高虎はそれを丁寧に畳んで包ませると屋敷に持ち帰らせたが、いずこに立て置きましょうかと問う小姓には蔵の中にでもしまっておくように命じて、以来それきりにした。
あの時も今も、吉継が焦れた地獄を共に恋い慕う気はない。
高虎にとっては遺されて生き続けなければならないこの世こそが地獄そのもので、絵の中の極彩色のそれはあまりに美しすぎたから。
高虎がその屏風をようやく開いてみる気になったのは、それからやっと三年も経った後。
世の中も、そして自身もようやく落ち着きを取り戻した頃、ふと思い立って蔵の中の屏風を虫干ししようと広げさせ、そこで高虎は奇妙なことに気がついた。
絵の上の隅になにやら白いものが見える。
以前これを最後に見た時には確かにこんなものは無かったはず。長く仕舞われていた間に黴でもしたのだろうか。
顔を近づけてよくよく見るとそこには一羽の蝶、純白の揚羽が銀の鱗粉をまき散らしながら苦悶にのたうつ亡者たちの頭上をいかにも愉快そうに舞い飛んでいるのだった。
--ああ...。
決して掴めぬ地獄の蝶を前に高虎は日の射す庭でひとり唇を歪める。
--そこがあんたの選んだ居場所ってわけか。
高虎には絵の中に顕れたそれが彼岸に遊ぶ彼の人の姿と自ずから信じられたのだった。
〈了〉
2010年冬コミにて無料配付したお話に加筆修正しました
高虎さんはいつも置いていかれる側の人だけど、 それに耐えられる強さがあるから、そういう運命を与えられるのだと思います でも、耐えられるからって平気なわけではないのです
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