まだ浅い春の雨は左近の傷ついた身体から体温を容赦なく奪った。
 ぐっしょりと湿って張り付くコートは重く、満足に動いてくれない脚にむち打つように左近はビルの谷間を彷徨う。
 行く宛などはなかった。
 恩義ある組織を裏切り、逃亡した自分を受入れてくれる場所などもはやこの世のどこにもありはしない。
 けれどもここで膝を折ってしまえば全てが終わりになってしまう。
 ただの負け犬として路傍に果てる。
 そんなみじめな最期を左近は甘んじて受入れることはできなかった。
 生きなければ。
 なんとしても、生き抜かなければ。
 左近を支えているのは生に対する執着。ただ、それだけ。
 しかし、ああ、視界が霞む。
 関節が悲鳴をあげる。
 もつれた脚よりも先に頭が前にのめり、そのまま左近の身体は石畳のうえに倒れ込んだ。
 これで最期か。随分あけっないもんだ。
 諦めが全身を覆い、霧散していく意識の中で。

「...行き倒れか。」

 ふいに頭上から細い雨と共に振り注ぐ声に、左近は鉛のような瞼を押し上げそちらを見た。
 とうとうお迎えがきたのか。
 沈みゆく思考の中で、左近は思った。
 それにしちゃあ、おかしいじゃないか。
 あれほど悪事の限りを尽くした来た自分に、天使が訪れるはずがないじゃないか...。
 左近の目に自分を覗き込むその影は、少年の頃教会の壁画に見た羽を持つ人のように映ったのだった---。

 

 

 

 耳の奥を撫でるような歌声。
 それに導かれるようにゆっくりと、左近の意識は浮上する。 
 薄く開かれた視界にいたのはあの天使、いいや、天使に見えたのはひとりの美しい青年だった。
 長く伸ばされたまっすぐな髪と、どことなくさみしげな色素の淡い瞳。
 身に纏った犯し難く高貴な空気に、彼を天の御使いと左近が思い込んだのも無理はない。

「気がついたか。いま、なにか飲むものをとってこよう。」

 目を瞬かせる自分に気づき、席を立とうとする青年の手首を捕らえて左近は言った。

「もうすこし、歌っていてくれないか。」

 祈りにも似た男の声に、青年は少し戸惑いそれから花の綻びるような顔で微笑んでみせたのだった。
  

 

 

「...佐吉の存在がなければ、私たちの関係もまた違っていたのだろうか...なぁ勝猛。」

「誰だ勝猛って。
 まるっきりパクリじゃないですか!?
 ていうか組織って。
 30過ぎた大人が天使とか言うな。
 あんたの不治の病は中ニ病ですか。」

 目眩を耐える左近を全く無視し、大谷は目を細めて彼の中にしか存在し得ない過去に思いを馳せる。
 遠くに行ってしまった彼を無視して左近がクッキーに手を伸ばそうとしたその刹那、再び見開かれた大谷の瞳に不敵な炎が揺らめいた。
 それは瞬時の出来事であった。
 床に不規則な染みを描いてコーヒーカップが砕け散るのと同時に、がちり、と不快な金属音がカウンターの上でぶつかり合い火花を飛ばす。
 大谷がシンク下から取り出した抜き身の村正と、左近がコートの奥に忍ばせていたベレッタM92。
 太刀の切っ先は左近の肩にかかった髪を一筋散らして首筋に触れ、銃口は大谷の胸元に深く押し付けられた形のまま微動だにしない。
 
「ははっ、やるじゃないですか、大谷さん。」
 
「左近殿こそ、腕はなまっていないようだ。」
 
 しばし至近距離での睨み合った末に、ふたりはお互いに飛び退いて間合いをとった。
 一見、室内でしかも飛び道具を相手に長い刀を振るう大谷の不利である。
 しかしここはカフェ・ド・関ヶ原。
 大谷がその半生を捧げて築きあげた秘密の花園。現代のソドム。変態のびっくり箱。
 過剰かつ緻密に配置された趣味のオブジェたちが左近の行動を制限し、さらには姿を潜めて暗躍する大谷の行動を有利にする。
 結果、完全アウェイの戦いを強いられた左近はじりじりと追いつめられつつあった。
 
「最期にひとつ、あんたに言っておきますよ。」
 
 横倒しになったソファの影に身を潜めた左近は、姿の見えない大谷に向かって声を張った。
 
「あんたの煎れるコーヒー、あれだけは本当に美味かった。」
 
 くすり、と間近に人の嗤う気配。
 
「左近殿のコーヒーにはいつだって大谷液5倍だったからな。不味いはずが無い。」
 
「!!」
 
 一瞬、言葉を失う左近。
 その眼前にはいつのまにか間合いを詰めていた大谷が、瞳を半月に歪めて立っていた。
 
「これで終わりだ、島左近。
 佐吉のことはこの人気投票第一位の私にまかせて安心して地獄に堕ちるがいい。」
 
 逆手に構えた刃が光の筋を描いて左近に振り下ろされようとした、まさにその時。

 

“どっかーーーーん!!”

 

 耳をつんざくような轟音と爆風があたりを凪ぎ払い、一瞬のうちにカフェは瓦礫に帰したのだった。

 

 

 

 ほんの一瞬前まではカフェであったはずの瓦礫の山に脚をかけ、少女は高らかに笑う。

「あたしの勝ちね、おじ樣方。」

 純白の5段フリルのペチコートは無惨に煤に汚れ、爆風の衝撃に野いちご柄のヘッドドレスは吹き飛んでしまったが、今の彼女は気にも止めていない。
 
「この時をずっと待っていたわ...。
 邪魔なあんたたち二人を片付けて、これでやっと三成様はあたしだけのもの。」
 
 上機嫌で賛美歌を口ずさみ、ワルツを躍るように散乱した本の残骸をつま先で蹴散らしていた彼女であるが、ふいに足下に感じる気配にその場を飛び退いた。

「8.8cm FlaK 37ドイツ陸軍対戦車砲“アハト・アハト”...小娘、そんなものをどこから。」

 ごとり、とコンクリートの塊を押しのけて顔をのぞかせたのは跡形も無く破壊されたカフェの主人であった。
 かろうじて対戦車砲の直撃を免れた彼は奇跡的に即死こそ免れたものの、しかし、半身を瓦礫に挟まれ身動きがとれずにいる。

「藤堂財閥の力を甘く見ないで欲しいわね。
 あたしがおねだりすれば猛虎も子猫同然なのよ。つくづく女に甘い虎父様...。
 さあ、おしゃべりはもうお仕舞い。次で本当に最期にしましょう。」
 
 自由を得ようともがく大谷に向かって、少女の非情の砲口がむけられる。

「まっ待て、小娘。
 私たちはなんだかまあそれなりにうまくやってきたはずだ。
 それが何故いまになってこんなことを...。」

「あたしはね、ケチな男は嫌いなのよ。
 その中でも今まで一度もバイト代を払ったことの無いカフェの店長なんてのは特別にね。」

 さよなら、マスター。
 歌うようなつぶやきをかき消すように、春うららかな空に再びの爆音が轟き渡った---。
 
 
 
  

 
 
「---という夢をみたのでいい加減このあたしにバイト代を払うが良いわよ、マスター?」

「...分割でお願いします。」

 
 
 


夢オチ