今日も今日とて客の影も気配も無いカフェのカウンター。
 良く磨き込まれた一枚板の上にカップを戻し、左近はほぅと深く感嘆した。

「こうして左近殿にコーヒーを振る舞うのも久しぶりだな。」

 店の主は手焼きのクッキーの小皿を左近の前に差し出しながら珍しく穏やかな笑顔を見せた。

「ええ。殿がうちに来る前はよく寄らせてもらったものですけどね。」

 左近には、気ままにひとり暮らすマンションと通勤のために使う駅のちょうど中間地点の路地裏に位置するこのカフェに通いつめた時期がある。
 あの頃、自分が一体どんな仕事をしていたのか実のところ左近自身よく覚えていない。
 朝食も満足に摂らず家を出て、日付が変わった頃に帰宅し、シャワーを浴びてベッドに直行する、毎日がその繰り返し。
 そんなある朝、左近は路地の奥から漂う香りにふと急ぐ足を止めた。
 煎り立てのコーヒー豆の香ばしいそれは、徹夜の連続で寝ぼけたままの頭を優しく揺り起こす。
 時間を気にしつつも釣られるように歩み寄って、たどり着いた先がこのカフェ。
 こんな朝早くから営業しているのかと、曇りガラスのドアから見れば店の中は薄暗い。
しかし香りは確かにこのドアの向こうから漂ってくる。
 訝しみつつも、取っ手に手をかけ開いた先にはおよそ左近の馴染まない世界が広がっていた。
 壁一面を占める巨大な本棚。
 真っ赤なベルベッドのソファ。
 過剰にデコラティブな彫刻の施された飾り棚に並ぶのは、何の生き物かわからない骨格標本、鍵の付いた貞操帯、年期の入った使用感あふれる拷問器具といった、得体の知れないオブジェの数々...。

「何をしている。コーヒーを飲みに来たのなら座れ。」

 すっかり見入っていたところに背後から声をかけられ、振り向いた先、カウンターの中にいた声の主は抜けるように白い肌と真っ黒な長い髪を持つこの世のものならぬ美青年。
 まるで西洋骨董人形(アンティーク・ドール)のようだ...いいや、その優雅な立ち居振る舞いは殺雑とした日々を送る自分の為に神が遣わされた天使..?
 左近の目は彼の気品あふれる佇まいに釘付けになる。
 彼に促されるままカウンターに腰掛け、目の前でカップに注がれる琥珀色の液体から立ち上る香気に誘われて左近はそれを口に運んだ。
 
「大谷スペシャルブレンドだ。
 お前は実に運がいい。
 朝からこんなに美味いコーヒーに出逢えたのだから。」
 
 にっこりと微笑んだ見せた青年の自評が決して誇張ではなかった証拠に、以来、左近は自宅を出る時間を少しだけ繰り上げるようになった。
 一杯のモーニングコーヒーと、天使の笑顔に出逢う為に。
 
  

 

 
 
「...為に。」
 
「いやいやいやいや。“為に。”じゃなくて。
 あんたと出逢ったのは西川口のピンサロじゃないですか。
 お気に入りの女の子がバッティングして殴り合いになったじゃないですか。
 なに勝手に人の記憶をお耽美に改ざんしてんですか、あんたは。」
 
「やれやれ、左近殿は美形の大谷さんに嫉妬されているようだ。
 仕方ない、本当の事を語ろう、私たちの出逢ったあの夜の事を---。」