こいつは全く、本当に馬鹿なのではなかろうか。
 でなければ頭がおかしいのか、どちらにせよ正気の沙汰ではないと足下に這いつくばる男を見下ろしてため息をつく。
 知恵者と天下に名高いその男が時流も立場も顧みず、せめて一度だけでも自分と情を交わしてくれとしつこく言いよってくるものだから、仕舞いには追い払うのも面倒になって、それじゃあ、そうだな、足でも舐めてみせてもらおうか。そうすれば考えないことも無い。
 そんなふうに言えば流石に腹を立てて帰るだろうと思えば、なんだ、そんなことでいいのか、と、飛びつかんばかりに履物を脱がせようとするのを咄嗟に扇子の先で押し戻して、ダメだ、誰が肌に触れていいと言った。そのまま、しろ。ことさら冷酷を取り繕って命じてみせてから、もう半刻ばかり。
 すっかり足が濡れて気持ち悪い。栓が壊れたように溢れる生暖かい唾液が足の指の間にまで染みて布の張り付く感触は実に不快。なんだってこいつはこんなに欲情しているんだ。
 泥で汚れたままの履物の裏、誰のどんな物が落ちているか知れない往来を踏みしめたそんな所にまで舌を這わせて。気味の悪い男だ。
 こういうのを、変態、というのだろうか。
 ぐっしょりと重く湿ったこの足袋にしても、黒の繻子をの特別に肌触りの良い上等なのをわざわざ足の型に合わせて縫い上げさせたばかり、だというのに、こうなってしまってはもう二度と履けない、履く気がしない。
 戯れのはずの己の一言で台無しにしたそれが無性に惜しく思われ、腹が立ったので忙しなく絡み付く舌先を振り払うように蹴り上げると、ちょうど固い草履の縁が男の鼻っ柱に当たって、ごっ、とにぶい音がした。

--っつ..ぁ。

 同時に熱を帯びて呻く声。視力を失って鋭敏になった嗅覚に漂う鉄錆と青く生臭い匂い。
 足先の感触では骨にひびくらいは入っただろうに、床に踞ったままの男がどれほど満足げな顔をしているのか想像するだに自分の目の見えないことを幸運に思う。
 それにしても、この男ときたらどうしてこうも自分に執着してみせるのだろう。
 この、朽ちかけた身体。間近にこの世から消えてしまう身体に。
 問うてみれば彼は今さら何をといったように低く嗤った。

 

 無くなるってわかってるから、じゃねぇか。
 だからこうやって、なりふり構わずみっともない姿さらしてんだよ。
 終わりが見えちまってるあんたはそりゃ楽だろうさ。
 お奇麗な友情とやらに殉じて、清廉潔白、悔いの無い人生だ。
 けどな、俺は、あんたに置いていかれるこの俺はこれからずっと生きていかなくちゃいけないんだ。
 好きでもない奴に頭下げて、何の怨みも無い人間を犠牲にして、それでも、さ。
 だから、せめて、あの時ああしてれば良かった、って後悔するのは、そんなのはまっぴらごめんなんだよ。
 なぁ大谷さん、あんたは、全部忘れていいんだぜ。
 死ぬ時はきれいさっぱり俺の事なんて忘れて逝けよ。
 
 


 
俺が引導わたしてやるからさ。