『あかねさす』

  

  

  

  

 西日の射すリビングで恋人の帰りを待っている。
 陽のぬくもりが最後まで残るこの部屋はエアコンを付けなくても暖かい。
 床に足を投げ出し、ソファに背をもたれかけてクッションを抱き締めて。ふかふかのムートンのカーペットが気持ちよくてそのままずるずると滑り落ちて眠ってしまいそうになるのを必死で堪える。
 今日は早く帰ってくるって言ってた。そう約束した。
 行きつけのカフェから勝手に持ち出して来た恋愛小説は飛ばし読みした結末があまりに悲惨で途中で投げ出してしまったから、手持ち無沙汰になってテレビなんて付けてみるけれどそこから聞こえる人の話し声が騒がしすぎてすぐに消してしまった。
 小説と一緒に適当なCDを棚からつかみ出して来たのを思い出してそれをかけることにした。多趣味な恋人のお陰でここは良いオーディオがそろっている。床を這うようにして部屋を満たしていく低い男の声。

 

さまよい 海に背を向けて
誰でも持ってる 我が家に帰る
さまよって さまよって
好きなことができるところに行くのよ

 

 思わず聞き入ってしまった歌詞に今は少しだけ過去になった出来事を思い出す。
 あの時、とてもとても悲しいことがあって、比喩ではなく息をすることも苦しくなって、ここに逃げ込んだのだっけ。
 勝手に転がり込んで来たくせに顔を合わせることさえ拒否して、ベットルームを占拠し立てこもる俺を追い出しもせず、それどころか食事を差し入れ、俺がトイレやシャワーを使う時には物音を立てず気配を消して家にいないふりまでしてくれて、左近はよくもまあ根気よくつき合ってくれたものだと思う。 

 

もう千年の月日が経ったかのようだけど
ずっと若返りした私
世界が自分の家になったかのよう
会う人みんなを知っているのよ

 

 そうして少しずつと彼に慣れて、初めて彼と向き合って食べたのは彼の手作りのオムレツだった。ふわふわの黄色は幸せの色。またこうして人と、自分以外の人間と向き合うことができるなんて。卵の優しい色が目に染みてぽろぽろと流れ落ちる涙が止まらなくて、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら食べたオムレツの味はとてもしょっぱかったなあ。
 それからまた少し時間をかけて彼と一緒なら、彼が手を握りしめてくれるのなら外を歩けるようになって、友達なんて呼べる人間達と知り合って、今はもう一人でどこまでも、どこへでも歩いて行ける。
 春の陽に照らされて冬眠中の獣がおそるおそる穴蔵を出るように、当たり前の奇跡の中で俺は真っ暗な闇から這い出して来たんだ。
 でも、もう自由なはずなのに、怖いものなどなくなったはずなのに、どうして俺はここにいるんだろう?
 駕篭の中の小鳥みたいなこの生活、以前の俺なら耐えられなかったはずだ。
 貯金だってそれなりにあるのだし、例えば塾の講師だとか派遣の研究者だとか、仕事だって選ばなければなんでもできる。
 自分一人の力で生きることは、もう十分に可能なのに。
 ああ、左近のせいか。
 お世話になって、どうもありがとうございました。それではさようなら、では終わらなかった二人の関係。
 助けを求めて逃げ込んだ先で俺はあいつに捕まっちゃった。
 

 例えばあの髪。しっかりと乾かさずに寝た日の翌朝は最悪、放っておけばふわふわと重力に反してどこまでも広がってしまう俺のとは違って、彼のそれはいつでも烏の濡羽色。すくってもすくっても手のひらから墨のようにこぼれ落ちる。正面から抱き締め合った時に、彼の厚い肩に顔を埋めてその髪を弄ぶと心に凪が訪れる。

 
 例えばあの声。甘い睦言を耳のすぐ側で囁かれると、身体がとろけだしそうになる。ことの最中に“こんなに嫌らしく腰を振って。殿はまるで盛りのついた雌犬のようだ”なんて言われてそれだけで達してしまったこともある。それが大層彼のお気に召したらしく、以来忘れた頃に不意打ちをかけてくる。素面で聞けば耐えられないような雑言のはずなのに、自分の卑猥さを嘲笑まじり蔑まれるのにも感じてしまうなんて俺はまったくどうにかしてる。

 
 例えばあの指。乾いて、一見固そうだけれど意外に肉厚で弾力のある指先が身体のあらゆる場所に触れてくる。胸の尖りを爪先でくすぐられて、それだけでもう泣き出しそうなのに、もう許して欲しいと願っているのに、果てる寸前の瞬間を見計らったかのようにふるふると震える性器の輪郭を辿られる。太い指にぐりぐりと先端の小さなをこじ開けられ、普段は空気に晒されることことなど無い湿った粘膜をえぐられて、そのころになるとじくじくと疼きす後孔の淵にも早く触れて欲しくてたまらなくなって。
 そんなことを思っていたらどうしようもなくなって、バックルに手をかけた。くつろげたジーンズの中に手を差し入れてみる。固い布の中で窮屈そうに成長を遂げていた前に下着の上から触れているうちに指先がしっとりと湿ってきて、これだけでは足りなくなってその肌に張り付いた布を足の間からずらす。
 部屋に刺す光は朱を増して、けれどまだ明るい。
 真っ赤に腫れてとろとろに融け始めた性器。それは自分のものなのに、初めて見た訳ではないのに、どうしてもそこから目が離せない。

 
「んっくぅ...ん。」
 

 手を筒状に丸めて擦りあげるとあとからあとから蜜が溢れ出してきた。
 

「さこ..ぉん..。」
 

 すぐそこまで来ているはずの恋人にこんなところを見られたら。
 もういい加減に止めなきゃ。それでも熱を持て余す下半身は言うことを聞かなくて。
 いつも一緒にいるはずの彼の、ほんの数時間離れていただけの彼の姿を思い起こしただけで自慰を始めてしまうなんて、昨日の夜だって時間をかけて抱き合って、そんなに欲求不満なはずはないのだけれど。
 左近の言うように俺ってやっぱり嫌らしいのかな。
 それならいっそこのまま快楽に惚け切った顔で迎えてやろうか。彼はどんなにかびっくりするだろう。それでも、なんてはしたない方だ。左近が帰るまで待てなかったのですか。そんなことを言いながらあの艶のある笑顔できっと俺の望むものをくれるんだろうな。
 お風呂をぴかぴかに磨いてお湯を貼って待つことも、温かな湯気のあがる食卓を整えることもできない俺に可能なことといえば結局はこんなもので、でもきっと左近はこういうこと、嫌いじゃないと思う。
 俺は左近に捕まっているけれど、結局は何もかも、そう、何もかもが俺の思う通り。
 だったら、あれ?捕まっているのは左近の方なんじゃないのか。
 

 なんて考えてるうちに、玄関の、恋人の帰宅を告げるチャイムが鳴った。

 

  

  

  

 

 

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