--ずっと、ずっと、“こう”したいと思っていましたのよ。
女の細い腕が男の頭に絡み付くようにかき抱く。
--わたくし立派だったでしょう?
--貴方のために立派に死んで見せましたでしょう?
貴方のお役に立てて、わたしは心底うれしかった。
--だから、
--お勝を褒めてくださいましね、旦那様。
--もう二度と、離さずに居てくださいましね。
低い声で唸るように囁く彼女は、幽鬼らしく呪う相手を精一杯怖がらせようとしているつもりらしかった。
彼女の腕の中にいるのはそれこそ命を賭けて愛した夫とは全くの別人なのであるけれど。
--ずっと、ずっと、“こう”されたいと思うていたのです。
おそるおそる、といったように無骨な指が己をかき抱く腕を辿る。
--あなた様は万千代が長けてからは、ついぞこうしてくださることがございませなんだ。
--俺は最期の最期の刻(とき)までもあなた様に一目なりともお会いしたいと病の床から願っておりましたのに、遠く江戸に離れたあなた様は俺のことなどお忘れになったかのよう。
--ならばこそ、今生では叶わぬまでも“こう”なればずっとお側に置いていただけると信じておりました。
呪いの言葉とはほど遠く。
夢見るように愛おしげに呟いて、彼の縋る手は彼が生前に最も嫌悪した女のものであるのだけれど。
調度首の後ろの天井の辺り、虚空で交わされる声は時を選ばず家康の耳に届いてくる。
振り向いてもそこには何も見えないことわかっているので敢えて姿を確かめようとも思わなくなったが、慣れた昨今では声の無い時には一抹の寂しさを感じるほどだ。
彼らの語る言葉から察するに、幽鬼にも波長というものあり彼らはお互いの声も姿も認識してはいない。
家康自身にも気配や音は感じられても、彼らの姿は見えはしない。
彼らもまた家康の姿は見えず、話しかけても声は届いていないようである。
しかし、己の求める存在-すなわち家康の気配-だけは感じているからこそ、肉体の滅びて後も未練がましく現世に留まっているわけだが、実に滑稽なことには彼らは唯一感じるお互いの気配を家康のものと勘違いしているようなのであった。
この世の理(ことわり)から断絶された彼らは、盲目であり、聾であり、生者に触れることも叶わない実に脆弱な存在と成り果てていた。
彼らにできることといえば、見えぬ相手に向かって呪詛を吐き続けること。
そうして盲目の幽鬼同士、偶然にも触れ合うことのできた相手を自らの主人と信じ込んで愛撫すること。
つまりは家康の背後では常に、かつての妻とかつての寵童が自分の名を呼び合いながら睦み合う、そんな奇妙な光景が繰り広げられているのである。
答える者のない彼らの睦言は日毎に明け透けなものになり、さらには湿った水音、消え入りそうな吐息までもが漂うに至ると、家康には自分だけが知る彼らの肌の淫美な香りまでもが鼻孔の奥に蘇るような錯覚を覚えた。
彼らをこのまま放っておけばお互いにそうと知らぬまま、仕舞いには子まで成すのではないか。
そうして産まれて来た子は、やはり産まれながらに死者なのであろうか。
そんなことを考えて老臣に打ち開けてみれば、目の前の事象をしか信じぬ現実主義者(リアリスト)の彼は哀れげに主君を見てそれから、されば祈祷師でも呼び寄せますかとなおざりに言った。
いいや、そのようなことは必要ない。
これはこれでなかなかに良い。
死してなおこうも愛されるとは儂も果報者よな、と言ってやったら彼は全てが主君の戯れ言と受け取ったらしく、殿も悪趣味ですな、と嗤われた。
それからどうなったのかというと、結論から言えば幽鬼たちは主人の側で実に根気強くその死を待ち続けた。
互いを互いの愛しい主人と勘違いしたまま、生前には叶わなかった愛欲の日々に溺れながら。
彼らを失ってからの家康の人生には彼を憎む人ばかりであったので、ようやく機を得て彼らの元に逝けるとなった時には大層うれしげであったという。
補足説明すると...
・お化けになった井伊さんとお勝さまは、お互いの姿は見えないし声も聞こえていないが、気配だけは感じているしお化け同士なので触れ合うことはできる。
・お化けの二人の声は家康様には聞こえているが、家康様の声はお化けの二人には聞こえない。
・お化けの二人の姿は家康様からは見えない。家康様の姿もお化けの二人からは見えない。
どうしてこういう面倒くさい状態になったかというと、生きている人と死んでいる人では波長が違うから、というご都合主義的スピリチュアル。
お化けと生前と同じようにコミュニケーションがとれるはずがなくて、だからお化けって怖いんだよね、と思いますがどうなんでしょう。
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