『雪女』

 

雪をんな よそほふ櫛も厚氷 さす笄(こうがい)や 氷なるらん

 

--幼い頃、雪女に出逢ったことがある。

 
 深い深い雪の夜。
 酒の肴も尽きた頃、その代わりにでもと北の国の若いご家老様はこのほど召し抱えたばかりの傾奇者に言いました。
 傾奇者は差しかけた杯を止めて、じっと眼前の若い主人を見つめました。
 雪女のことならば、彼も幼い時分に寝物語に聞いたことがあります。
 それによれば雪女に出会った者は彼女の吐息に命を吸われてしまうのです。
 よしんば助かったとしても、雪女を見て生きて帰った者はそのことを決して人に話してはならないのです。
 話せば最後、雪女が再びその者を迎えにやってくるのです。

 
--越後の地で、幼き日のことだ。

 
 酔いの廻ったご家老様は軽く笑いました。
 邪気の無いその笑顔を傾奇者は大変愛しており、見ている程に良い心持ちになるのですがこの時ばかりは何故だか不穏な思いに捕われたのです。

 
--案ずるな。すぐに謙信公が邪気を払ってくれたわ。
 その証に今も俺はこうして生きているではないか。 

 
 それに、とご家老は続けました。  

 
--雪女とても山を越えてこの米沢までは追っては来れまい。
--そんなもんかねぇ。兼続、女ってのは怖いよ。

 
 ことさらに悪戯っぽい顔を作って傾奇者はご家老をたしなめました。
 ご家老様は義に厚い、さっぱりとした人柄で傾奇者もその素直さにひかれてわざわざ都を捨て、山深いこの地まで慕って来たのですがいかんせん物事を簡単に考えすぎる癖がありました。

 
--女子好きの慶次でもそのように思うのか。これは面白い。
--好きだから、その裏も知って言ってるのさ。女を甘く見ちゃあいけない。

 
 そこから話は女人のこととなり、都での雅やかな日々のこととなり、重ねる杯にいつしか二人は雪女のことなどすっかり忘れてしまったのです。

  

 けれど其の夜のことです。
 傾奇者は刺すような冷気に、与えられた布団の中でふいに目を覚ましました。
 火鉢の熾火はとっくに消えていましたが部屋は十分に温もっていたはずです。
 雨戸も障子も硬く閉ざして寒さの入り込む隙間は微塵も無かったはずです。
 隣にかき抱いたまま眠ったご家老も未だ夢の中。すうすうと安らかな寝息を立てています。
 不思議に思った傾奇者が部屋の中を見回すと、庭に向いた窓がわずかに開き、外の雪明かりが細雪を纏って差し込んでおりました。
 そしてその中に、ひとりの女の影があったのです。
 来たな、と傾奇者は思いました。
 あんな話をするから、女は来た。
 話に聞いた通り、彼女は真っ白な着物を着て、垂らしたままの髪には簪の一つもなく、その身体と辺りの空気との境は霞んでぼやけておりました。

 
--こいつを喰らいに来たのかい。

 
 少しも臆する気配もなく豪放に笑う傾奇者に雪女は首を横に振りました。

 
--私がこの方に初めてお会いしたとき、この方はまだあどけない童でありました。

 
 女の指先がそっと、ご家老の額に触れます。

 
--そのお顔の大変涼やかなこと、物言いの賢きこと、この日の本に比類無きものと思い、私はこの方を我が元でお育て申し上げいずれは我が婿にと思うておりました。
 けれど。

 
 女の眉根が顰められます。

 
--この方のお仕えするご主君のこの方をお守りする力が強く、お連れ申し上げることが叶いませなんだ。
--それで、今になってこの男を連れにはるばる越後の国からやって来たってわけか。
--私どもの本性は雪でございますもの。雪のあるところならばどこへでも。

 
 傾奇者のそれとは対照的に女の嗤いは地吹雪が這うようでした。

 
--雪女は、戸の隙間から漏れ入る吹雪のようなもの。
 その者の心に隙無くば思いを遂げることは出来ませぬ。
 この方のお心は強い。
 永遠に融けることの無い氷に守られている。
 もはや私の思いを差し挟むことなど不可能でありましょう。

 
 もしかしたら本当に雪の姿を借りて、彼を見ていたのかもしれません。
 友を失い、戦に敗れ、志を折り、それでもこの地に生きると決めた、ご家老の心中を女は全て知っているようでした。
 そして、そんなご家老を傾奇者がどれほど大事に思っているのかも。

 
--私が会いに参りましたのはあなた様でございます。

 
 気がつくと女は傾奇者の側にすり寄り、顔を寄せていました。氷の気配が頬を撫でます。

 
--この方の氷のお心を溶かす方が居るとすればあなた様ではございますまいか。
 あなた様を我がものとすれば、このお方のお心も我が手に入るのではありますまいか。
--誘ってくれているのかい。うれしいねぇ。

 
 近づけられた唇を傾奇者は拒みませんでした。
 眠っているとはいえ主人であり情人であるご家老の上で、妖とはいえ女と重ねられる口づけがどんなものであるのか、この酔狂な傾奇者は試してみたくなったのです。
 ところが、薄い皮膚同士が触れ合った瞬間、女の身体は宙に飛び退きました。

 
--ああ。あなた様は熱い。私の嫌いな陽の匂いがする。

 
 その顔は先程までとは打って変わって、冬の嵐が吹き荒れるような凄まじい魔物の形相を露にしています。

 
--もっと早くにお前を喰ってしまえばよかった。
 あの時、庭坂の峠でお前を埋め殺してしまえばよかった。
 この地になど入れるではなかった。
--けれどお前さんはそうしなかったんだな。

 
 外の雪がいつの間にかごうごうと音を立てて激しく戸を叩きます。
 けれど傾奇者の声もそれに負けてはいません。

 
--だって、仕様が無かったんだもの。
 お前がいなければこの方の心は壊れていた。
 この方はお前を待っていた。
 それを知って、どうしてお前を殺せよう。

 
 激しくも哀切に満ちて女は訴えます。

 
--冬よりも永く、雪よりも深く、この方を想っておるのに。
 なんと口惜しいこと。皮肉なこと。
 私に壊せぬ氷があるなんて。

 
 傾奇者は気付いていました。ご家老を見下ろす女の瞳が母親のような慈愛を帯びていることに。
 ご家老が童の頃に出逢ったのだと女は言いました。
 願っても願っても、叶わぬ思いの切なさにこの妖はどれほどの時間、耐えて来たのでしょう。
 それは人となんら変わりない、いいえ、妖であるがゆえにいっそう孤独なものであったでしょう。

 
--あなた様がいなくなったその時に、私はきっとこの方を迎えにくる。
 それまでどうぞこの方のお側にいて差し上げてくださいましな。

 
 言葉の終わりが聞こえた時には女の姿はもはやどこにもありません。
 ただ、窓から吹き込んだ雪がひとひら、閉ざされたままのご家老の瞼に落ちて、ゆっくりとゆっくりとその姿を水に崩していったのでした。

 
--あんたも罪なお人だねぇ、兼続。

 
 その雫をそっとぬぐい、何も知らずに眠り続けるご家老を傾奇者もまたやはりいっそういとおしく思ったのです。

  

   

 

  

  

  


何故。何故この時期にこのながれ
冬の間に書いてほったらかしておいたものが発掘されたからです