ほんの短い間夫だった男の流した末期の血の上で彼女は犯されている。
 さっきから無骨な男の手が首に掛けられていて、最初は抵抗もしたのだけれど今はもう何もかもがぼんやりとして、相手の男が腰を振る度にがちゃがちゃと鳴る鎧の音だけが耳鳴りのように脳裏に響いていた。
 下半身を襲う痛みは痺れたようになっている。そこだけではない。指先も、むき出しになった胸も、凍えきって感覚が無い。
 ほんの少し、男の手が緩んだ隙に空気を求めて身を引きつらせると中が締まったのか男がふっ、と荒く息を吐いた。
 余程具合が良かったのだろう。
 もう一度、とばかりに緩められた手にさらに強く力が込められる。
 意識の端から霞が沸いてすっかり視界を覆いつくすその瞬間、彼女は世界を呪った。

 

 

 それが彼女の終わりの始まり。

 

 

 魔王の寝室からは先程までいくつもの女の悲鳴が聞こえていたが、半刻も持たずに静まり果てた。
 それでも今回は長く持った方だと妲己は思う。
 また新しい女を探してこなければならない。
 生け贄達を哀れとは思わないけれど、その手間を思うと陰鬱な気分になった。
 若くて美しくてまだ男を知らないそんな女、どこを見渡しても戦ばかりしている世の中ではなかなか見つからない。
 苦労して探して来た彼女たちを王はあっと言う間に抱き潰してしまう。 
 魔王の閨は所詮人間の女には耐えられないのだ。
「このように喰い散らかされて。お行儀が悪うございますわ。」
 寝室に踏み入って来た彼女に一瞥を喰らわせると王は今度は彼女を寝台に組強いた。
 足り無い。色の違う左右の瞳が飢えを叫ぶ。
 思うに彼は、寂しいのではなかろうか。
 氷を滑らすような愛撫を露な肌に受けながら彼女は考える。
 だから自分のような女を仕立て上げ、側に置いているのではなかろうか。
 優秀な軍師であり、貞淑な妻であり、愛らしい妹であり、いとけない娘であり、古くからの親友であり、そして共犯者である自分のような女を。
 だからある時、身体に生じた違和感を彼女は畏怖を持って受け止めた。
 まさかそんなはずがないと何度も確かめた。
 彼女が恐れたのは自分の身体が変わってしまう事で、王との間に築いて来た均衡が破られること。
 時を重ねて膨らむ腹の中の存在が、二人の間を分つのでないかという危惧。
 彼女の思いを知って知らずか、王は相変わらず冷たい指で彼女の膨れた腹に触れてくる。今までに見せた事の無い穏やかな色にその瞳が濁るのをやはり彼女は恐れながら、心の片隅では王が喜ぶのであればそれも良いのかもしれないと思い始めていた矢先。
 突然腹の奥から爪を立てて掻きむしられるような激痛が彼女を襲った。ずるり、と何かが股の間から滑り堕ちる感覚にぎゃあ、と叫んで下肢を見遣るとそこはもう血の海で、その中で苦しげにのたうつ肉の塊。
 もう一度金切り声をあげてそれきり彼女は意識を失った。

 

 彼女の身体でさえも、王を受入れる事はできなかったのだ。

  

 彼女が目を覚ましたとき、寝台の側に王が立って自分を見下ろしていた。
 一体いつからそこにいたのだろう。
 王が人事を心にかけるようなそんな男ではないと彼女は知っていたのでこれにはとても驚いた。
 真っ赤に染まっていた下肢は奇麗に拭われて新しい着物に包まれている。
 膨れていた腹はもうどこにもない。
 全身にまとわりつく重い疲労感が無ければ、まるで何事もなかったかのように。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。」
 細い吐息でそれだけ告げてまた目を閉じてしまった彼女の頬を、王がその長く伸びた爪で彼女の皮膚を傷つけないように撫でていたことを彼女は知らない。
 王が欲しかったのは自分の同胞だった。
 闇から生まれて、気がついた時には独りだった彼は世界の端から端まで仲間を探そうと、それこそ時も場所も選ばずに駆け巡ったのだけれどすべては徒労に終わっていた。
 いないのならば作れば良いのだと彼は考えたのだけれど、結局彼に出来たのは自分がこの世でたった独りの存在であるという事の痛いほどの認識。それだけ。

 

 

 

 

 妲己は独り自室に籠って過ごすことが多くなった。
 日がな一日、水鏡を通して人間達の世界を眺めるのが彼女の常。
 鏡は時を越えて、世界を越えて、様々な人間の姿を彼女に見せてくれる。
 どこの時代、世界でも人はまあ飽きもせずによく殺し合っていた。
 同じ人間同士がほんのわずかな土地や食べ物、時にはその両方も満たされているはずなのに目にも見えない名誉やら志なんてもののために殺し合う姿は滑稽なものとして彼女の目を楽しませた。
 ある日、東の果ての小さな島国の戦を垣間みていた時に彼女はその人間を見つけてしまう。
 彼はとても美しい顔をしていて、彼の信じる世界とやらのために多くの人を戦い合わせ殺していた。
 どうやら彼はそれがもっと多くの人間を幸福にすると、本気でそう思っているらしい。 決して愚かな者ではなさそうなのに、何故気付かないのだろう。
 彼女は彼に興味を抱いた。それは彼女のほんの気まぐれであったけど、一時的にせよ彼女にそんな思いを抱かせた人間は初めてだった。
 彼女は彼の未来も垣間見た。
 自分の仕掛けた戦に敗れて彼は首を斬られる。
 美しかったその顔が醜い肉塊に成り果ててしまうのが彼女にはどうにも我慢がならない。
 “あれ”を自分の物にしたい。
 どうにかして生き延びさせ、手元で飼いならす方法はないかしら。
 彼女はおもしろい遊びを思いついたと王に告げた。
 人間達を集めて殺し合いをさせましょう。
 恋人同士を、家族同士を引き離して、彼らが何をしでかすか見物してやりましょう。
 暇に倦む彼女を持て余していた王は少し考えてから彼女の願いを聞き届けてやった。
 彼もやっぱり暇、だったのだから。

 

 

 

 

 人が殺し合いに慣れ切っている、そんな世界の人間達を集めて彼女の暮らす混沌の中に放り出してやれば結果はあっけないほど思った通り。
 最初は混乱していた彼らだったが、家族の為だとか、力が欲しいだとか、こちらが聞けば自分勝手な言い訳を振りかざしてやっぱり殺し合いを始める。
 もしかして、と妲己は思う。
 人間という物は本当は殺し合うのが好きで、そのための建前が欲しいだけではないかしら。
 なんだ、つまらない。
 こちらが楽しむはずがこれでは逆だ。彼らを楽しませてやってるだけじゃないか。

 

 

 

 

 残虐な女だと彼女に言った人間がいる。
 どちらが残虐なものかと彼女は思う。
 自分たち魔の眷属は人間を殺す事はあるけれど、それは例えてみれば人が生きる為に獣の肉を喰らうようなものなのだし、時にそれに一時の享楽を見いだす事はあっても加減というものを知っている。人間は大切な食料であるのだから滅びられてはこちらが困る。
 自分たちが何の理由も無く互いに殺し合う事は無い。
 獣とてそうだ。同種同士が殺し合うのを妲己は見たことが無い。
 なのに人間だけが互いにあい争う。
 なんて不思議な生き物だろう。

 

 

 

 

 人間達の中には様々な者がいた。
 王の絶対的な力の前に従う者、儚い抵抗を試みる者、絶望に身を浸す者。
 彼らが思い思いに振る舞う中で、あの男だけは側に置いた。
 賢い彼は形の上では王と妲己にしたがう素振りをみせた。
 近くで見ていて気付いた事がある。
 彼は一見美しいばかりの面の皮の下に様々な感情を蠢かせている。
 戯れに、次々に押し付ける無理難題を彼は表情一つ変える事無く片付けていった。
 同胞を殺せ、という命令にも従った。
 いかにこちらの損害を少なく、相手方の人間-それは彼の同胞であるはずなのに-を多く屠るか、彼は綿密に策を立て、時には自ら武器を握って戦に出て行く。
 けれど彼が独りになった時、例えばそれは戦の後、頭を抱えて嗚咽をかみ殺しているのを彼女は知っている。彼は誰にも見せない奇麗な涙を地に向かって降り注ぐのだ。
 彼は果たしてなんのためにこんなことに耐えるのだろう。それが知りたくなって妲己は彼の首に付けた縄を少し緩めてみる事にした。
 やがて彼は自分が王と彼女の信頼を得ていると確信すると水面下で動き始めた。
 そしてついに王と彼女を裏切ったのだ。
 それ自体は彼女が予測していた範囲の出来事で、そもそも地上の様子を見ていても人間とは裏切りを常とする生き物なのだから驚く事は何も無い。
 彼女が驚いたのは成り行きとはいえ、自分が王を裏切り、彼の軍に身を置く事になった事だった。
 魔は同胞を裏切らない。人間などに興味をもったから自分まで人間のようになってしまったのかしら。
 彼女は自分の行動に戸惑いながらより深く周りの人間達を観察した。
 王の元に居た時には何故王が仲間を求めるのか分からなかった。彼は独りで出来ぬ事が無いほどに十分に力があるのだし、そんなものを見つけたとしても上手くやって行けるとは限らない。余計な手間を増やすだけではないか。
 けれどここにいると、物珍しげに自分におそるおそる話しかけてくる人間達に接していると、なんとなく彼の気持ちがわかるような気がする。
 このままここにいるのも悪くないかもしれない。
 少なくとも、暇、ではない。
 そう思ったとき、彼女はもっと彼を知りたいと願っていた。
 こんな気持ちになったことが昔、あったような気がしたけれどよくは思い出せない。

 

 

 

 

 王の元を離れて自由を得てから、彼はしきりと誰かを探しているようだった。様々な戦場に自ら出ては情報を集めている。
「あなたの探している人は、もうどこかで死んでいるかもしれないわよ。」
 意地悪くそう言ってやるとあからさまに彼の表情は歪んだ。
 人間というものは全くおもしろい。あれだけ手を血に染めて来たくせにたった一人の生き死にに、これほど心を砕く。
 唇を噛み締めて顔を背けてしまった彼の頬にそっと指を添える。
 手にした扇子ですぐに振り払われてしまったけれど、小刻みに震える肌のなんと暖かかったことか。死人の温度しか持たない自分に比べれば人間というものは誰だって暖かいはずなのだけれど彼のそれには胸が満たされて、初めて気付いた。
 そこに空洞を抱えていた事を。

 

 

 

 

 ある日、共に馬を駆って出た戦場で、彼はついにその人を見つける。戦塵に散らばる黒く長い髪。大きな刀。彼女の嫌いな陽の匂いのする男。
「左近!!」
 剣を交える幾多の兵を隔てて声の限りに名を呼んだ彼のそのたった一言で、すべてを悟る事のできた自分の賢さを彼女はこの時ほど憎んだ事は無い。
 せっかく手にしかけた何もかもをかなぐり捨て砦を抜け出たその足で彼女は王の城へと駆け戻っていった。

 

 

 

 

 帰って来た彼女を王は何も言わずに迎え入れた。
 何も語らない王の温度の無い瞳をみていると結局のところ、自分の身から沸き出した数々の感情はすべて幻だったのではないか。
 ちょうどそれは彼らが欲して得られなかった腹の子のように。
 彼女の日々は以前と変わらない。人間達の争いを眺め、気が向けば戦に出る、王と過ごす退屈な日々。
 勢力を増した彼の軍勢が攻めてくると知らされて、砦で迎え撃つといった彼女を王は止めなかった。
 いざ出陣となった時、彼女は王の耳元で別れの挨拶を囁いた。

 

 

   ありがとう。
   さようなら。

 

 

 私を作ってくれた貴方。
 私を壊してはくれなかった貴方。
 間もなく世界は終わりを告げる。
 彼女の呪った世界を、彼が終わらせに来る。
 彼女はそれがとても楽しみでならない。
 彼を救おうと思った訳ではないけれど、どうやら彼が自分を救ってくれるらしい。
 水鏡で人間の世界を覗いていたとき人間達がよく口にしていた言葉がある。
 彼らはとても苦しい時やどうしようもなく悲しい時に、彼らの愛する者たちを前にしてよくその言葉を語っていた。
 

   希望。
 

 長らくその言葉の意味が彼女には分からなかったのだけれど、この世に、闇に覆われて何も見えないこの世に彼らの言う希望とやらがあるのなら、今のこの不思議と華やぐ気持ちをそう呼ぶのかもしれないと彼女は思った。

 

 


硬い。無駄に長い。そして面白くない
ここまでおつき合いくださった方がいらっしゃいましたら、お疲れさまでしたと心から申し述べたい
そしてありがとうございました(土下座)
もうこれは誰が誰なんだか一体