昔、北の国の海にひとりの人魚が暮らしておりました。
 海の寂しさを嘆いた人魚はせめて自分の子にだけはそのような思いをさせまいと娘を人間の老夫婦のもとへと預けます。
 娘は夫婦の元で何不自由無く育ち、何時の頃からか夫婦の生業であるろうそく作りを手伝うようになりました。
 人魚の娘がろうそくに描く文様は彼女が産まれてからわずかの間目にしていた海の底、およそ人には思いも及ばぬ美しい世界の光景なのでした。
 娘のお陰でろうそく屋は大層にぎわいました。
 繁盛ぶりを聞きつけてはるか都からも商人が買い付けに参ります。
 その中に、南の国との商いを営む香具師がおりました。
 彼の商売はありとあらゆるこの世の珍しい生き物を南の国に売って見せ物とすること。
 どこからか娘の素性を聞きつけた彼の目的はろうそくなどではなく、娘自身でした。
 男は老夫婦を言葉たくみに言いくるめ、差し出された金子に目のくらんだ夫婦は娘を男に売ってしまいます。娘は獣のごとく檻に閉じ込められ、故郷の海の見知らぬ果て、遠く遠く南の土地へ連れて行かれてしまったのでした。
 それを知った母親の人魚は烈火の如く怒り、同時に嵐の如く嘆き悲しみました。
 

--人間というものをは世界でいちばんやさしいものだと私は思っていた。
 決して弱い者をいじめたり、苦しめたりなどしないものだと信じていた。
 なのになんということだろう。
 私があの子を人間などに預けなければあの子は今もこの海で穏やかに暮らしていたものを。
 

 母親は海から上がり、村のはずれ、小高い山の山頂にあるお宮に娘の残したろうそくを灯しては海の果てからでも娘がその光を見つける事を願ったのでした。
 ろうそくの灯火が山頂に揺らめく夜には必ず海は荒れ、漁に出た船の何隻かは二度と港に戻る事はありませんでした。
 それを人々は人魚の怨みがもたらす災いと恐れました。
 漁師達は海に出る事も止めて家に閉じこもり、村が寂れ始めた頃、この地方を治めるお殿様のご家老が村の噂を聞きつけます。
 

--そのような物の怪をのさばらせておく訳にはゆかぬ。
 この直江山城が討ち取ってくれよう。

 
 元来人魚はそれと関わった者を不幸にすると言い伝えられておりまして、己が身を持ってそのことを知る村人達が止めるのも聞かず、ご家老は刀を片手に参道の脇に隠れ人魚がお宮に詣でるのを待ちました。
 幾晩かの夜が無意に過ぎ、さては村人達の作り話であったかとご家老が思い始めたその宵のことです。
 道の脇の大杉の影に身を隠し、ご家来があくびを噛み締めておりますと雨でもないのにぴちゃぴちゃと水のしたたる微かな音がいたします。
 音は次第に近付き、ご家老が暗闇に目を凝らして音のする方を見ますとそこには赤いろうそくを片手に参道を登り来る女の姿があったのでした。
 ご家老はそれを目にするや否や、こやつに違いない、と白刃を煌めかせて木の後ろから踊り出ました。
 振り下ろした刃に確かに手応えを感じたと思った途端、ぎゃあという獣のような叫び声が辺りの林に谺し、ごとり、と何かが転がり落ちた音がいたしました。
 地に横たうそれは女の身体から切り落とされた右の腕でした。
 女は亡くした二の腕のあたりを押さえてよろめきながらもかろうじて立ち尽くしております。
 不思議と傷口から血の吹き出る気配はなく、地に落ちた腕は身体を失ってからも二三度指先を悶えさせておりましたがやがてやっと生命が消えたように動かなくなりました。
 

--おのれ人間。
 

 乱れた髪の下から真っ赤な口を覗かせて女は呻きました。
 

--我が子に非道な仕打ちを喰らわせてなお飽き足らぬか。
 この報いはいずれ必ず果たしてみせようぞ。
 それまで我が娘の怨み、我が腕の怨み、努々忘るるな。
 

 そう言い残すと女の姿は大きな海水の水たまりをのこしてすっかりご家老の前から掻き消えていたのです。
 ご家老は人魚の残していった腕を拾い上げ、お屋敷に持ち帰りました。
 古代より人魚の肉はそれを喰らった者を不老不死の身体に変えると言い伝えられておりまして、ご家老はそれをそのままに信じてはいませんでしたが、持ち帰って幾日たっても、幾月たっても腐り果てるどころかつやつやと生きたままの張りを保つ女の腕を見ているとその伝説もあながちでたらめではないのではないかという気になり、無下に捨て去るわけにもいかず、さりとて人に譲り渡せるはずもなく、絹布に包み戸棚の奥深くしまい込んでおいたのです。
 
 

 

 

 

 それからどれほどの時がたったのか。

 
 もともとこの小さな島国の人々は互いに暇さえあればわずかな土地をめぐって争いを繰り返していたのですけれど、それがついに頂点に達し国をふたつに分けた大いくさがおこりました。
 ふたつの軍勢のうち片方を率いておりますのはご家老の幼なじみ、今は大きなお城のお殿様になった石田三成様と申しまして、人魚の村の殿様もご家老もこのお方の味方として戦に馳せ参じることになったのです。
 三成様は一度人を信じれば疑うということを知らないまっすぐな御気性の持ち主で、ひとりのとても賢い家臣を重く用いておりました。
 島左近、という名のこの忠実な家臣はいよいよ戦に出ようとする殿様に一差しの杯とひときれの膾とを差し出して言いました。
 

--殿、これは近くであがったという大鯉です。
 鯉は瀧を昇って龍になると申します。
 どうぞ、戦勝の祈願に御召しくださいませ。
 

 三成様は左近の言うままに、その膾を口にしました。
 それは今まで食べたどの魚とも、いいえ、どんな食べ物とも違った妙なる味がしましたが、これも吉兆と喜び、杯を干し皿を空にいたしました。
 けれど、戦の末は三成様の軍勢の負けでした。
 三成様は家臣とも生き別れ、どうにか逃げ延びようといたしましたが叶わず、敵軍の手に落ちて、ついには首を切られることになりました。
 三成様の首が胴と断たれ寂しい河原にさらし物になって、幾日かすぎたある夜。
 誰も寄る者のないはずの河原の石を踏みしめる音がいたします。
 それは、戦で離ればなれになったあの忠実な家臣、島左近でした。
 

--殿。
 

 左近は首になった三成様に話しかけます。
 

--殿。目をお開けくださいませ。
 

 するとどうでしょう。
 永遠の眠りを眠っていたはずの首の瞼がかっ、と見開かれたのです。
 

--左近、貴様。
 

 首は高台からこれまで誰にも見せた事の無い恐ろしい形相で左近を見下ろして言いました。
 

--よくもこの俺を化け物にしたな。
 

 左近はその焼き殺さんばかりの視線に少しも臆することなく、首に手を伸ばしました。
 

--この時をどれだけ待ったことでございましょう。
 

 これで殿は左近だけの物になり申した。
 首の三成様はしばし言葉を失いました。
 確かに、三成様はこの忠実で賢く武勇にも優れた家臣の才を愛でてはおりましたが、彼がこのような劣情を我が身に抱いているとは今この時まで思いもよらずにいたのです。
 首を胸に抱き締めて左近は鬼のように笑いました。
 あの時、戦勝祈願の膳と偽って左近が殿様に差し出したのは、それを喰らった者は不老不死の身を得るという人魚の肉だったのです。

 

 

 

 

 左近が人魚の肉を手に入れたのは、本当ならば決して三成様を首だけの化け物にする為ではなかったのです。
 これが天下分け目の大いくさとなると皆が思い始めたその頃、左近は遠く北の国で三成様を助ける為の戦を起こそうとしているご家老のお屋敷に呼ばれました。
 大方、戦のための軍議であろうと左近が尋ねて行くと、通されたご家老の私室には策を練る為に必要な図面も墨も無く、沈痛な面持ちのご家老が独りで座っておりました。
 

--左近、お前に頼みがある。
 

 絞り出すような声でご家老は左近に言いました。
 

--お前ほどでないにしても俺の三成を大事に思う気持ちには限りがない。
 

 幼なじみとしていかに自分が三成様を大切にしているか、けれどこの戦は危険な事この上なく、自分としては三成様を危険な目には合わせたくないというようなことをご家老はとつとつと語ります。
 

--俺とてこのようなもの、信じておるわけではないのだが。
 

 今さら何の事やらと訝しむ左近の前にご家老は脇にあった布の包みを取り出しました。
 器用な指が結び目を解き、衣擦れの音がしてそこに現れたのはあの人魚の腕でした。
 

--人魚の肉だ。
 これを食ろうた者は不老不死になるという。万が一の時には、三成にこれを。
 

 顔を強ばらせる自分をじっと見つめるご家老様のその視線に左近もそれが嘘や戯れ言ではない事を知ったのです。
 左近は黙ったまま頷き、包みを懐にしまい込みました。
 

--俺は。
 

 ご家老様は苦しげに顔をうつむけました。膝の上で握られた拳が微かに震えております。
 

--俺は三成に生きていてもらいたいのだ。
 

 例えどのような姿になってでも、と言葉を続けたご家老の望みは奇しくも叶いました。
 三成様の身体は今や左近のすり替えた別人の首とともに焼かれて灰となりお弔いの石の下。
 首だけの姿で残された三成様は、邪な恋の果てに劣情に身を狂わされた左近のものとなったのです。

 

 

 

 

 左近は首を自分の住処としている遊郭の一室に飾り置き、夜と無く朝と無く愛でました。
 顔色が悪いと言っては、三成様はもはや死人なのですからそれは当たり前のことなのですけれど、遊び女の使う白粉を塗り、口に紅を引きます。仕舞いにほんのりと頬に朱をまぶしますと三成様はもともと細面の華奢な骨格の持ち主でありましたから首は男のものとは見えずまるで思春期を迎えたばかりの少女のような風貌になりました。
 左近はこれを喜び、身体を離れて後も伸び続ける髪を結い上げ、そこに生きた花を刺します。花は毎日取り替えられ、首を飾り立てました。
 最初の頃こそ左近の首に対する扱いにはかつての主君に対する礼節の名残香のようなものが感じられたのですが、近頃では対抗する術をもたない首を己の思うがままに扱います。
 ある時、宴の酒に酔った左近は侍らせた遊女達の前に誰の目にも触れさせず、大切にしまっておいた首を取り出してみせました。
 

--どうだ。美しい首だろう。何を隠そうこれは我が主人、石田三成様の御首級ぞ。
 皆々、とくとご覧あれ。
 

 もちろん遊女達がそのようなことを信じるはずがございません。
 女達は気味悪がりながらも、いずれかの生人形師が作ったと思われるその首を眺めました。
 首は女達の好機の視線に晒されても眉一つ動かさず人形のふりをせねばなりません。
 そのうち酔い廻った年若の女郎がおそるおそるではありましたけれども頬をつついて参ります。
 首がされるがままに任せておりますと、その悪戯は次第に荒っぽいものとなり、ついには首を自分の露にはだけた胸に押し当てて赤子に乳を飲ませる仕草までしてみせるのです。
 左近はと言えば、この過ぎた余興を止めでもなくからからと笑って女郎をはやし立てます。
 

--このところは人々からも忘れ去られて首も寂しそうにしてござったから、お前の子としてかわいがられてうれしかろうな。
 

 首はいっそ眼前に突きつけられた仄赤い女の乳首を噛み切ってやろうかとも思い及びましたが、ここで素性を晒しても物の怪と蔑まれるだけの事。この屈辱を砂を噛む思いで耐え忍んだのでした。
 

 

 

 

 左近が何より好んだのは、女を抱きながらそれを首に見せつける事でした。
 本心では今は首となったこのお人とそのような交わりを持ちたかったのでしょうけれど、左近を受入れるべき身体はもうこの世にありません。
 代わりに左近は猛った自身を女の洞に突き込みながら、枕元に置かれた首に向かって睦言を吐き続けます。
 貴方だけを愛している、だの、この世に貴方より美しいものはない、だの。
 切なげな息の下から吐き出される言葉は、それは結局のところ女の身体を通して得た快楽を人の言葉に変換しただけのものなのですから、首がちっともうれしいはずも無く半ば腹立たしく半ばあきれ果てて聞いていたのでした。
 女の中で果てを迎えると、左近は抱いていたばかりの女を突き飛ばし部屋から追い出してしまいます。女としては先程の言葉が全て自分に投げかけられていたものと思っているものですから合点がいかず、それでもたたき出されるようにして左近の元から逃げ出して行くのです。
 残った左近は女の白粉のべっとりとついた腕で首を持ち上げ、抱き締めました。
 そしてまだ荒い息のまま首のぎりぎりと引き結ばれた唇に己の厚い舌を這わせるのです。
 

--殿。ご機嫌を直してくださいませ。
 左近が女を抱くのがそれほどにお気に召しませぬか。
 

 首にとっては左近が誰を抱こうがどうでもいいことでした。
 しかし誰であろうと、誰でもあるからこそ、女の身体に自分の姿を重ねて抱くその様を見せつけられる事に、いっそ発狂してしまいたいほどの屈辱を感じていたのです。
 

--ご安心ください。左近が愛しておりますのは殿だけでございまする。
 けれど殿のお身体では左近を受入れられぬ、あ、いや、もうお身体などありませんでしたな。
 

 くつくつと笑いながら左近は首の耳朶に甘く歯を立てます。
 柔らかなそこを弄られると首は這い登る悪寒にたまらず眉を寄せました。
 だんまりを決め込んでいた首がそのような反応を返した事に味を占めた左近はますます首に悪戯をしかけます。
 耳の孔に唾液を絡ませた舌を差し込みぐちゃぐちゃを音を立ててそこを犯してやると、脳髄を直に愛撫されるような感覚にふぁっ、と首の喉が鳴ります。
 男として達する器官を持たないために、向かう先の無い快楽が頭蓋に溢れるのでしょうか。耳の周りの髪の毛が濡れて項に張り付くほど、随分と長い事そうされて、首はぼろぼろと涙を流しました。
 声をあげればそれは左近を楽しませるだけなのですから、首は必死で歯を噛み締め声を堪えます。
 けれど長いまつげを震わせてひたすら刺激に耐えようとする様もまた左近を楽しませて止まないのでした。

 

 

 

 

 首が思いつく限りの罵詈雑言を投げつけてみても左近はいささかも動じた様子を見せません。むしろ首の口から自分に向かってのみ吐き出される汚い言葉の数々を、まるで楽でも楽しむかのように涼やかな顔で聞き入っております。
 次に首にできることはこの男を徹底的に無視してやることでした。
 唇を寄せてこようが、酒の杯を無理に含ませようとしてこようが首は視線の一つも動かしてはやりません。
 これには流石に左近も手を焼いて、優しげに首の髪など撫でるふりをしながら囁きます。
 

--そのようにされていては本当の人形になってしまったようで左近は悲しく思いまする。
 どうぞ以前のようにお声を聞かせてくださいませ。
 

 それでも首が一声も発さずにいると機嫌を損ねて手元の膳を蹴り、何処かへ遊びに出て行ってしまったのでした。
 独り部屋に残されて、首は久方ぶりの孤独を楽しみました。
 ここに連れてこられてからは始終左近と差し向かっていたので見渡す範囲に彼の姿の無い事は首を心から安堵させました。
 つかの間の平穏に首は様々な事を思いました。
 自分がこのような姿になったのは二人魚の肉とやらを食べたからだという事。
 それを手に入れたのは数少ない親友であった直江山城だという事。
 しかし首には彼が自分をこのような姿にするつもりがあったとは思えず、彼から肉を預かった左近の、身の内に秘めていた欲の深さをまざまざと、まさに身にしみて感じたのです。
 自分がもう少しあの男の本性を知っていれば、今となっては詮無き事なれど左近という一人の家臣に寄せた信頼の重さ故に首にはそれが悔しくてならないのでした。
 止めどない思考に疲れて首がうつらうつらとしておりますと、すっと襖の開く音が致します。
 左近が帰ってくる時間には少し早く、畳を踏む足音の軽さからそれが女と知れた首はとっさに固く目を閉じ、人形のふりをいたしました。
 

--殿様。殿様。三成様。
 

 女はその足跡に磯の匂いのする水たまりを残しながら首の前まで来ると立ち止まり、首に声をかけました。
 自分の名を呼ばれ、首ははっと目を開けます。 
 それは青白い顔をした女でした。
 女には右手が無く、魚鱗の文様を織り込んだ白い衣の袖がゆらゆらと揺れております。
 

--そのお姿。確かにあなた様が三成様でございますな。
 

 膝を折ってかがみ込むと、女は瞬きを繰り返す首に話しかけます。
 

--あなた様が食ろうたのは、私の右の腕でございます。
 

--するとお前は人魚なのか。
 

 女は頷きました。
 

--私の腕を斬ったご家老様は、あなた様が斬首されたのを知るや否や北の地で腹を召されました。
 九泉の下であなた様に会えることを願っておいででしたがこれではそれも叶いませぬな。
 

--兼続..兼続が。
 

 突然もたらされた親友の訃報に首の瞳が揺らめきました。
 自分をこのような姿にした元凶をもたらしたとはいえ、それはあくまで自分を思ってのこと。生と死の世界に分たれ永遠に親友を失ったことは首に大きな悲しみを与えたのです。
 

--私の怨みは行き場を失いました。
 そして今、私の肉を食ろうたあなた様がこのようなお姿を晒しておられるのを見るにつけ、人間というものの欲深さにあきれ果てておりまする。
 

--俺を連れて行ってくれ。このような姿になってはもはや人として生きることも叶わぬ。
 あの男の慰み者として弄ばれて、奴が死んだ後はどうなる。
 見世物小屋に飾られるのがおちではないか。そのような屈辱、これ以上耐えられぬ。
 どうかお前達の世界へ俺を連れて行っておくれ。 
 

 首は女にすがるように、ほとんど叫ぶようにして訴えかけたのです。
 

--本当は、こうしてあなた様をお捜ししたのは私の肉を喰らった者がどのような不幸な目にあっているのか嘲ってやろうと、そう思ったのですけれど、今のあなた様を見てそのような気も失せ、哀れに感ずるばかりです。
 

 冷たい指先でそっと、女は首を自分の目線に持ち上げます。
 

--御身はもはや我が眷属。
 この世で暮らして行けぬとあれば我らが都、海の底へとお連れ申しましょう。
 同胞たちもあなた様に同情こそすれお怨みは致しませぬ。
 

 幼子に言い聞かせるように優しげな人魚の声に首はほっと息をつきました。
 首にとって何より辛いことはかつては自分が主人として治めた人の世に、異形のものとして晒されることだったのですからこの人魚の言葉はまさに天からの救いのように思われたのです。
 喜ぶ首に微笑みかけた後、ぐるり、と部屋を見回して女は低い声で言いました。 
 

--けれど御身に我が肉を喰らわせた人間をこのままにすることはできませぬな。
 

--それは...俺とて同じこと。しかしこの身は首ばかり。刃を握る腕も無い。
 

 悔しげに睫毛を伏せる首に女は婉然と笑って唇を近づけました。
 温度の無い舌が咥内を這い、歯列をなぞったかと思うとそこには鋭い、獣の牙が生まれたのです。

--これがあなた様の刃。

 口の端から溢れた唾液を袖で拭いながら女は言いました。

--私があなた様にして差し上げられるのはこれまで。
 夜明け前、再びお迎えに参ります。その時は、共に。


 首と約すると女はその足跡に出来た小さな海と共に部屋から姿を消して行きました。

--左近。

 夜も更けた頃、酔っぱらって部屋に戻って来た左近に首は今までに聞いた事のないような優しげな声で話しかけました。

--左近。俺もよくよく考えた。
 いきさつはどうであれ、お前なりに俺を思うてのことだったのだろう。
 今はもはやこのような身の上に成り果てたからには俺はもうお前にすがってしか生きる事は叶わぬ。
 どうか今までの事、許しておくれな。
 そうして此れまで以上に俺を可愛がっておくれ。

--殿。

 左近の真っ赤に染まった頬が涙で濡れ光ります。
 あれほど釣れなかった主人の口からこのような殊勝な言葉が聞ける等とは夢にも思っていなかった事なのですから、この矯激な心変わりをいぶかしむような余裕は彼にはありません。

--そのようなお言葉をいただけてこの左近、夢のようでございまする。
 ああ、本当に酔いの果ての夢ではないか。
 この命のある限り、大切に大切に致しますぞ。

 左近は首をかき抱いて誓います。

--ならばその証に口づけをしておくれ。

 酒臭い口に吸われても首は嫌な顔一つせず、むしろうっとりと目を潤ませてねだりました。

--ああ、左近。
 俺も。俺もお前を味わいたい。
 お前の全てに口づけたい。
 もっと頭を寄せてはくれないか。

 主従の間柄であった時でさえ垣間みることも叶わなかった首の甘い仕草に左近はもはや盲目的に従うのみでした。
 首は左近のかさついた唇に舌で触れると、その先を欲して頬を舐めます。
 左近は首の突き出す舌の方向に頭を動かしてやりました。
 柔らかな、猫のような舌は、かつて左近がそうしたように耳朶をくすぐるように噛み、左近のたくましい首筋を辿ります。
 拙い愛撫に左近がくすくすと笑うのも意に介さず、首はまるで何物かを探すように辺りを舐め回しました。

 そしてある場所、とくとくと脈打つ管が一番感じられるその場所を探し当てると。

--ぐっああああっっ!!

 尖った犬歯が頸動脈を突き破り、左近の身体が仰け反ります。
 畳の上に放り出された首の目に、吹きあがる血を押さえようともんどり打つ左近の姿が映りました。

--殿..。

 必死で添えた手の間から襖に鮮やかな紅の飛沫を描き大きな身体が倒れます。
 それでも随分の間、何者かにすがるように悶えていたのですけれど仕舞いには力尽きて自らの身から湧き出た血の海に沈む男の姿を首は微笑みをもって見守ったのでした。

 人魚の腕に抱かれて沈む波の底は暗く、けれど少しの息苦しさも感じる事はありませんでした。
 三成様の人としての命はとっくに果てて、これはこの首はもはや生ける者ではないのですからそれは当たり前のことなのですけれど三成様にとっては水の冷たさも感じることなく、まるで海の底の世界が自分を迎え入れているように感ぜられたのです。
 深く深く、潜り続けながら人魚は首に話しかけました。

--三成様、ほとほと人間とは恐ろしいものでございまするなぁ。

--いかにも。

 波間に髪を漂わせて首は地上で出逢った人々のことを思い起こそうと目を閉じましたが、海深く沈んでいるせいか記憶にはおぼろに霧がかかりようよう思い出す事ができません。

--こうしてみるとお前達、人間の目には怪異と映る者達のほうが余程人らしい心を持っておるように思える。

 首の言葉にくすくすと人魚は笑いました。

--人らしい、とはおかしなもの。
 そのように言われましても少しも有り難く思えませぬ。
 三成様、人の心などお捨てなされませ。さすればもう思い煩うこともございますまい。 

 

 人魚の言葉に首はそれもそうだと考え直しました。
 思えば人の世でおこった出来事は争いやら色恋やらとかく醜いことばかり。
 人魚もそれを知ったからこそ自らと絶望を共有する首を救い出す気になったのでしょう。
 こぽり、と音がして首の口の中に残っていた最後の地上の空気が泡となり高く高く登って行きます。
 頼りなげに水面を目指すそれが見えなくなる頃、首は地上の世界の事を一切を忘れ果てたのでありました。

  

   

 

  

  

   

 

  


このかっとび設定は一体。もはや1059である必要性がどこにも見いだせないというこの有様
そして恋愛要素はまたしても0
冒頭部分は小川未明の赤いろうそくと人魚からのオマージュとかリスペクトとかそんな都合の良い言葉でもにょる
未明のお家は代々上杉神社の神職だそうです