背中の下でスプリングが悲鳴を上げている。
 衝撃に耐えるように閉ざしていた目をうっすらと開けて見上げた恋人は切なげに眉を寄せて悦楽の真只中にいた。
 薄くひらいた唇から溢れる吐息とも喘ぎともつかない密やかな呻き。
 いつもは余裕たっぷりの男の、こんな顔は多分とても珍しい。
 誰にでも見せる訳ではないそれが今は自分のためだけにあることが、三成にとっては実のところ、身体を交えることでもたらされる生理的な歓びよりはるかに心地良かった。
 恋人が腰を打ち付ける度に額に滲んだ汗が固い頬、骨張った顎を伝って下にいる三成の胸に滴る。
 受け止めるその肌だってもう水でも浴びたかのようにびしょ濡れだったから、汗は落ちた側から溶けあってどちらのものかわからなくなった。
 上昇する体温に気化して発する甘酸っぱいような匂いは嫌いではない。
 左近がいつもほんの少しだけ付けているコロン、長い髪を束ねるのに使う整髪料、かすかな紫煙の名残。
 そんな人工的な匂いと、二人分の生々しい雄の匂いが一緒くたになってつんと鼻の奥をつくとひどく淫らな気分になる。
 それを不快と思わず、むしろ陶然と酔いしれている自分に気付いた時には驚いた。
 あれほど人と触れ合うことを嫌ってきたのに。
 他人の触れた、例えば階段の手すりだとか、きちんと洗ってあると分かってはいても誰が使ったか分からないレストランのナイフやフォーク。そういったものにまで嫌悪感を抱いていたあの頃が嘘のようだ。

 
--そうだ、あの頃とは違うんだ。

 
 もっともっと深く繋がりたくて。
 首の裏に回した腕に力を込め厚い肩口に顎を預けて、三成は子供のような顔で頬微笑っていた。

 

 

 

 体中の力はすっかり抜けきって指一本動かすのも億劫でならない。
 まるで泥の海に沈められているようだ。
 ぬるく、心地よく、底なしに堕ちていくのを止められない。

 

「冷えすぎましたね。少し開けましょう。」

 

 余韻のままにぼんやりと寝転んでいたから、情事の間に纏った汗がエアコンの無機質な風に乾いて体温を奪っていた。
 先程までの熱が嘘のようにすっかり冷たくなった三成の背にシーツを掛けて、左近はバルコニーに面した戸を開け放つ。
 温く湿った空気と共に滑り込んでくる、車の通る音や週末の街をいく人の笑い声。それに。

 

--夏の匂いだ。

 

 どこからか仄かに漂う塩素の匂いに三成はそう思った。

 

「何か飲むもの、持ってきますね。」

 

 腰の立たない自分とは違い、恋人のなんと強靭な事か。
 そんな彼の細やかな心遣いがうれしく、気恥ずかしく、けれど結局は甘えてしまう。

 

「炭酸がいい。あまいやつ。」

 

 キッチンに立つ恋人を視線だけで見送りながら三成はもう一度想いを巡らせる。

 

 

 濃い塩素の匂い。
 わざとらしいほど透明で青い水。
 海や川ではない、人工的な水たまり。
 
 

 

 そこで泳ぐのは決まって夜だった。
 昼間の刺すような太陽はもともと苦手だったし、はしゃぎ回る幼なじみたちに混じって遊ぶだけの無邪気さも早くに失っていた。
 けれど水に浸かるのは嫌いではなかったのだ。
 夜の水のもたらす一人きりの静寂を求めて、真夜中にベットを抜け出してはそこに来ていた。
 太陽の熱をいまだ遺して生温い水がねっとりと重く四肢にまとわりつく感触に、ああ、そうだ、あの時も幼かった自分は泥の海のようだ、と思ったのだっけ。
 いつものようにひとしきり手足を遊ばせた後、そろそろ上がろうと水たまりの縁に泳ぎ付いた三成の視界の端、石の床の上に白い影が映る。
 近付くに連れて形がはっきりしてくると、それは立ちつくす人の足だった。
 自分1人きりだと思っていた三成は流石にぎょっとして視線を上げる。
 まるで死人のように色の無い蝋細工の肌は膝の辺りで途切れて、そこからさらに上に同じく真っ白な顔と腕が浮かんでいるように見えたが、それは彼女の辺りの闇ほども黒いドレスと髪のせいだと気付く。
 水に浸かったまま呆然と身動きが取れずにいる三成に、彼女はしゃがみ込んで手を差し伸べた。
 飴細工のように白く、細く、まるで指先から溶けてしまいそうなその手を自分は取ったのだろうか。
 ただ、暗がりの中で白く揺らめく少女の顔の、自分の名を呼ぶ唇だけが血を舐めたように紅かったことを覚えている。

 

 

 

「とーの?」

 

 横たわった頬に押し当てられた冷たさに三成はびくりと大きく肩を震わせた。

 

「眠るなら、ほら、きちんとパジャマを着ないと。風邪引きますよ。」

 

 どうやら僅かの間、眠っていたらしい。
 小さなミントの葉が添えられたソーダ水のグラスを受け取りながら頭を振ると、カラン、と軽やかな音を立てて氷が揺れた。
 喘ぎすぎて乾いた喉を刺激しながら流れ落ちていく。
 半分ほどを一気に飲み干してほう、とため息をつく恋人を左近は愛おしげに目を細めて見つめていた。

 

「左近。」

 

「ん、どうかしました?」

 

 ゆっくりと髪を撫で付けてくれる手。

 

「なんでもない。大丈夫、大丈夫だ。」

 

 夏の匂いに誘われてつかの間に見た、あれはただの夢だ。現実ではない。
 触れ合うのは温かな手。

 
--だから、大丈夫。大丈夫なはずなのだから。

 
 グラスを持ったまま子供じみた動作で抱きつく三成を、左近は何も言わずにその大きな腕で包込む。
 左近の身体からはまだ情事の名残香が仄かに漂っていて、それを感じていればあの匂いはやって来ない。

  

  

  

 

 

 それはもう昔のことで、あの場所からあの人から逃れてここまで来たはずなのに。
 今はもう何の恐れも無く触れることのできる腕を見付けたはずなのに。
 夢の中の声がどこか切なく懐かしく、悪夢だったとは思いきれない事が三成には恐ろしかった。



  

  

 
   

     


殿が飲んでいるのは水だしミントソーダ
世界の台所シリーズが好きです
でも殿のは左近の手作り