「こちらはテイクアウトもしてくださるのよね?」

 
 その女の人がいつ店に入って来たのか、あたしは気付かなかった。
 店長は近所まで出前に出かけてあたしは1人で留守番。 
 いつもなら夜のこの時間はワイン目当てのお客さんが何人か入っているはずなんだけど、その日に限って店にはあたし以外に誰もいない。

 
「あ、はい。
 でも今、マスターは出ていて。
 すぐに帰ってくると思うんですけど、お待ちいただけますか?」
「豆でも良いの。ここのブレンド、主人が好きなのよ。」

 
 その人の声はとても澄んでいた。まるでよく通る笛のような。外の熱さなんて一気にクールダウンさせるような。

 
「でも、本当にすぐですから。お時間さえよろしかったら。」

 
 あたしだって少しはコーヒー豆の扱いを覚えたけど、やっぱり店長には敵わない。
 せっかくなら、挽きたてがいいじゃない。

 
「そうね..ここに来るのも久しぶりだから、そうさせていただこうかしら。」

 
 ぐるりと店の中を見回してから、その人はカウンターの一番端の席に懐かしげに目を止める。
 あたしはキッチンでアイスティーの用意を始める。あたしはコーヒーより紅茶の方が得意だ。あの人がよく頼むから自然と煎れ方もプロ並よ。

 
「サービスです。召し上がってお待ちください。」
「ありがとう。いただくわ。」

 
 婉然と微笑んでその人の長く真っ赤な爪が冷えたグラスの淵をなぞる。
 なんていう香水なのかしら、わずかな身動きの度に仄かにしっとりと甘い香り。
 奇麗に複雑に結い上げられたて銀の簪を挿された髪。
 整えられたネイルは家事向きではないし、日が暮れても熱の冷めないアスファルトの上を歩いて来たっていうのに汗の跡もないし、自分であんな髪にはできないものね。
 若そうに見えるけれど落ち着いていて、真っ白な左の薬指の付け根にはシンプルなリングが光っている。
 きっととても良いところの奥様なんだわ。
 袖のない黒のチャイナドレスはぴったりと身体のラインに張り付いて彼女のために仕立てられたものだって分かる。
 盛り上がった胸元、くびれたウエスト、ハリのある腰回り、スリットから覗く白い足。今のあたしには無いもの。
 いいのよ、育ち盛りなんだから。これから成長するんだから。あと2、3年もすればすごいわよ、あたしだって。多分。

 
「前はよく夫と来ていたんだけど、最近あの方も忙しくてね。
 あなたとは初めてね。こちらでアルバイトをされているの?高校生かしら?」

 
 将来のために思わず観察してしまったあたしにその人は微笑みながら尋ねた。

 
「はい。看板娘です!」

 
 きっぱりと、自信に満ちて言い切るあたし。

 
「わたくしが前の夫と結婚したのも、あなたくらいの年でした。」

 
 あたしくらいの年...いくら学生結婚でもそれは早すぎよね。

 
「ご結婚、早かったんですね。」

 
 結婚にはそりゃもちろん憧れるけど、この年頃って遊びたい盛りじゃない。

 
「その分、早くに別れてしまったのだけれど。」

 
 でもね、とその人は続けた。

 
「嫌いで別れたわけではないのよ。
 そうね、彼は小さな会社を経営していて、私の父の取引先だった。
 政略結婚みたいに言う人もいたけど幼くて妻としては至らないわたくしにも優しくしてくださった。」
「じゃあ、ご主人ていうのは..。」

 
 聞いてはいけない、と思いながら好奇心が勝ってしまう。お客様相手に失礼なのはわかっているけど。

 
「その後すぐに再婚した今の主人。わたくしよりも6つも年下なのよ。」

 
 その人は少し照れくさそうに頬を染めた。だからあたしは調子に乗ってしまったの。

 
「お幸せ、なんですね。」

 
 女の子はね、結局ハッピーエンドの物語が好きなのよ。辛い別れを経て幸せを掴む、ってそういうストーリーを夢見るものなの。
 でも、あたしの言葉にその人は答えなかった。代わりに。

 
「あなた、好きな方はいらっしゃるの?」
「はい!...あ、でも..なかなか気付いてもらえなくて。
 おまけにその方には恋人っていうか、とても大事にしている人がいて。あたしの入る隙がなかなか無くて。」
「奪ってしまえばよろしいのに。」
「え...?」
「好きなものは、欲しいものは、奪って自分のものにしてしまうの。
 そして駕篭の中に閉じ込めておくの。
 誰にも見せないように。触れさせないように。」

 
 つややかに濡れ光るその人の唇が自嘲気味に歪んだようにあたしには見えた。


「貴方は...」

 
 閉じ込められていたの?それとも、閉じ込めていた?そう聞きたかったけど冷たい声があたしの声を遮る。

 
「わたくしは自由になりました。
 けれど困ったわ。
 こんなこと、今まで無かったものですからこうなってみると何をしていいのか分からない。おかしなものね。」
「でもっ、お洋服を好きなだけ買うとかとか、ケーキの食べ放題とか、してみれば案外おもしろいんですよ。
 自由なんだったら、楽しいこときっといろいろありますよ。なんでもできるわ。」

 
 バカね、あたし。これだけ何もかもそろった人にお洋服もケーキもあったもんじゃない。

 
「そうね。」

 
 少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑ってその人は言った。

 
「本当になんでも出来るのなら、恋をしてみたかったわね。
 あなたのように。」

 

 

 

 
 
「あーぢーいーー。」

 
 まずはビールでも一杯いかがですかって思わずおすすめしたくなるくらいに汗だくの店長がドアを開ける。
 一緒に重い熱風が入り込んで来てあたしは露骨に顔をしかめてみせた。
 あの女の人はちょうど入れ違うように帰ってしまった。
 豆はまた今度、挽きたてを買いに来るって。あたしとお話しできて楽しかったって。

 
--私がもう少し若かったら、あなたと良いお友達になれたのに。

 
 そんなふうに言われてちょっとうれしかった。

 
「あ、お前また店のものに手ぇつけたな。バイト代からさっ引くからな。」

 
 いけない。アイスティーのグラス、カウンターに出しっぱなしだった。

 
「違うわよ。お客さんよ。
 随分待っていてくださっていたんだけど、店長が帰ってくるの遅いからまた来るって。
 せっかくブレンドをご希望だったのに。どこまで行ってたのよ。」
「あそこだよ。表通りのでっかいビル。
 そこの若社長がさ、うちのコーヒーをお気に入りだもんで時々出前頼まれるんだよ。」

 
 それならあたしも知ってる。何年か前から進出して来た大陸資本の貿易会社。確か創業者の父親から息子が日本部門を任されて急激に業績を拡大してるって新聞に出てた。
 そんな人なら美人秘書の煎れたてコーヒーを浴びるほど飲めるだろうに。そりゃここのコーヒーは美味しいけど、わざわざ取り寄せてなんて酔狂な人もあったもんだわ。

 
「前は奥さん連れてよく店に来てたんだけどな。
 奇麗な人だったぞ。上品で、いっつも良いにおいさせてな。大人の女!って感じのな。」

 
 なんだかカチンと来るわね。
 この年から大人の女!だったら20すぎにはおばあちゃんよ。
 なんであたしのウリは可愛らしさなのよ。
 男ばっかのむっさいこのお店に健気に咲く花なのよ。

 
「社長ともなればお忙しいことでしょうし、こんなピンポイント客狙いのカフェに気軽にコーヒー飲みになんて来れないわよねぇ。」

 
 店長の顔が少し曇る。

 
「あぁ...亡くなったんだ、奥さん。」

 
 そして、声を落として。

 
「まだ若かったんだけどな、自殺だって。
 お前がバイトに来る前の夏に。...ちょうど、今頃か。」

 
 からん、とグラスの中の氷が硬い音を立てる。

 
「ここだけの話だけどな、若社長、その奥さんにべた惚れして、人妻だったのを前の旦那の会社潰して無理矢理別れさせてまで手に入れたんだってさ。
 で、自分のものにしてみてはものの、浮気だなんだって疑って監視まがいのボディーガードまでつけて外にも出さないで、それで奥さんノイローゼになっちゃったらしくてな。」

 
 露を纏ったグラスを片付けようとしてそこでやっとあたしは気付いた。
 アイスティーが減っていない。
 いいえ、氷が融けた分だけ増えている。
 たしかに、あの人、ストローに口をつけていたはずなのに。

 
「こんなこと言うとあれだけど、あんまり突然で遺書も無かったから、嫉妬に狂った若社長が毒でも盛ったんじゃないかってここらじゃ噂になったんだ。
 あそこ、警察の上とも繋がってるっていうからろくに捜査もしなかったみたいだし。」

 
 話が似すぎている。
 そんなはずない。
 あの人はさっきまでそこにいた。
 あたしとおしゃべりをした。
 でもどこにでもあるってレベルの話じゃない。
 適温のはずのエアコンが急に寒く感じる。
 じっとしていられなくて、カウンターの水滴を拭こうとあの人の座っていた席に近付くと辺りにはまだ彼女の香りが残っていた。
 店に染み付いたコーヒーの匂いにもかき消されずにいるそれは、強くて甘い白い花の。

 
 思い出した。

 
 花の名前は梔子。
 花言葉は、

 

 

 

 
“沈黙”

  

  

 
   


大谷の話し方を忘れました。ていうか決めていなかったことに気付きました

 おまけ(別窓)