我が身のうへは
 かのひとの 恋の重荷と
 なり果てて 朽ちゆきにけり

 

 

 

 

 白髪の覆う年になって、恋した相手が悪かった。
 彼が心奪われたのは20も年下の彼の主君。
 かつて出逢ったどの女も及ばぬその美しき顔(かんばせ)。
 薄い唇から吐かれる怜悧な言葉はいかな楽の音も奏でられぬ妙なる響き。
 老いに身を蝕まれた彼の目にはその全てがらんらんと咲きこぼれる花と映った。
 その花を手折ってみたい。
 いいや、手折ることが叶わずともその花弁に触れ、色を楽しみ、顔を寄せて香しき蜜を味わいたい。
 妄執に似た恋はじりじりと彼の身を焦がす。
 どうにかして思い人の心を惹こうと、彼はあらゆる手段を試みた。
 主君が音曲に興を示したと聞けば、馴染みの遊女に頼み込んでその頃ではまだ珍しい蛇皮線というのを貰い受け、無骨な手で修練を重ねる。
 その結果は惨憺たるものであったが主君を破顔させるのには役立った。
 

--左近は楽が下手だな。
 

 そう言って端正な主君の顔が笑みを形作るのを見ているだけで心は満たされる。
 しかし、それもほんのつかの間のこと。
 二人の間はあくまで主従。
 主人にとって彼は自分に仕える家臣の1人にすぎず、一度きりの微笑みがその深く広い距離が縮めることはない。
 思考に倦んだ時、手にした扇子をぱちりぱちりと開け閉めするのが主人の癖で、それがあまりに過ぎるとささくれ立った竹の骨が主人の白く細い指を傷つけた。
 筆を持っては舞うように、書を手繰っては歌うように器用に動く主人の指。
 その奇麗な指に赤く小さな切り傷が刻まれるのを、彼は自らの身が切り裂かれるような思いで見つめていた。
 彼は少しでも主君が心安らかにあるようにと働きに働いた。
 主君の前では己の智の限りを尽くして策を献じ、主君の見ていないところで謀略に身を染める。
 やがて彼は自らの手で主君の政敵を葬り去ることを始めた。
 敵の多い主君のこと。斬っても斬っても敵は減らぬ。
 むしろ次から次に天から地から湧いて出て彼の刃は束に収まる暇もない。
 彼は時折、朱に染まった手を見て思った。
 俺は何をやっているんだろう。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 今さら何を思っても詮無きこと。一度転がり落ちた坂の途中で止まることは難しい。
 いつしか彼は考えることを止めてただひたすらに目の前の人を斬った。
 侍を斬り、それを追って走り出た奥方を斬り、1人この世に残される哀れを思ってその子を斬った。
 そのような修羅の日々を送るある日のこと、夜通し人を斬った明け方、何喰わぬ顔で主君の屋敷に戻った彼を待っていたのは思いも寄らぬ仕打ちだった。
 彼の姿を目にした門番たちが騒ぎ始め、その声を聞いた宿直が駆けつけ、口々に何事かを叫びながら彼に刃を向けたのだ。
 

『無礼な。何をする。俺は左近だ。島左近だ。』
 

 彼は声の限りに叫んだが、誰も耳を貸そうとはしない。
 白刃の輪に囲まれ抵抗も空しく彼は縛された。
 鉄鎖を幾重にも身にまとい、ざんばらになった白髪をかき乱して暴れ狂い、彼は身の潔白を訴える。
 自らの姿を顧みることのできない彼は気付かなかった。
 全身を返り血に染めたその姿がもはや人のものではなくなっていることに。
 目を血走らせ、眉間と額とに深く皺を刻み、かさついた唇からは牙のような犬歯が漏れて、そんな彼をもはや佐和山二十万石の家老と思う者などいはしなかったのだ。
 強者ども数人ががりに鎖を捕られて彼は庭の白州に引き出された。
 

「なんの騒ぎか。」
 

 鳴り止まない鬼の咆哮に、障子の奥から顔をのぞかせたその姿に向かって彼はすがった。
 

『殿、殿。三成様。』
 

 身をよじる度に鎖が体に食い込み、皮膚を割る。
 それでも彼はすがり続けた。
 

『左近でございまする。私は左近でございまする。島の左近をお忘れか。』
 

 けれど叫びは届かない。
 それは既に人の言葉を失って獣の嘶きにしかならなかったのだから。
 

「は、お屋敷の前でこの狂人が騒ぎ立てておりまして。
 腰に人の首らしき物を下げてておりましたので捕らえましてございまする。」
 

 暴れる鎖を引き締めながら、警備の者が発した言葉に左近は愕然とした。
 もはや誰も自分を島左近とは思っていない。
 この身は鬼と成り果てた。
 確かに自分は人を斬った。その数も覚えていないほど。
 けれどそれは全て、今、目の前にいる主人の為のはずであったのに。
 その主人は不愉快そうに眉をひそめると、手にした扇子でかつては左近であった鬼を指して短くこう言った。
 

「そのような者、見苦しい。切り捨てよ。」
 

 即座に振り下ろされた白刃のもと、ぽん、と彼の首は主君に向かって跳ね飛んだ。
 縁側の板間の上に赤く軌跡を描いて転がる頭を、主人は足袋裸足のつま先で数度弄び、そしていかにもつまらなそうにそれを蹴落とした。
 

「さて、」
 

 開いた扇子をぱちり、と鳴らすと主人は独り言のようにつぶやいた。
 

「左近の姿が見当たらぬな。大方、遊郭にでも遊びに出て朝帰りか。」
 

 鬼の首は薄れ行く意識の中で主人の言葉を聞き、その指がかりそめにも自分を思って傷つくのを見届けて目を閉じたのだった。
 

 

 

 

 老いらくの背に恋の荷は重すぎて、とても人の身には負いきれぬ。
 勝ち過ぎた荷に押しつぶされた哀れな鬼の物語。

  

   

 

  

  

   

 

  


とりあえず左近にごめんなさい
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