彼岸-over the Deep
River
たゆたう水面を細い指が汲い、そこから生じた波紋はどこまでも広がってまいります。
ふたりを乗せた小舟はずいぶんとながい間、こうして水面をただよっておるようでした。
ここがどこであるのかお殿様にはわかりません。
幼い頃から見慣れた湖の沖でもあるようですし、またかつて太閤様の命を得て明の国へ渡る途に観た海のただ中であるようにも思われます。
--左近。左近。
行けども行けどもあたりは霞に包まれて岸辺も島影も見当たらず、また他に付き従う船の気配もなく、流石に不安になったお殿様は舟先で櫂を取るご家老様を呼びました。
--もう戻ろう。そろそろ皆が心配している頃だ。
ご家老様は少し困ったような、それでいてなんとも愛おしげな顔をお殿様の方に向けました。
--殿。それは叶わぬのです。
我らの居場所はもはや此岸にはございません。
それ、お足下をご覧為さい。
言われて見ると、いつの間にか足下の舟底からは水が沸き出でており、お殿様の袴のすそを濡らし始めておりました。
とっさに身を引いて逃げようとしたお殿様の身体をご家老様の腕が抱きとめます。
--少しも怖いことなどないのです。
こうして左近が抱いて居て差し上げますから。
これより後は、ずっと、ずっと、二度と離れることのないように。
耳元で囁かれる言葉は甘く切なく、枯れた大地に注がれる慈雨の如くお殿様の胸中に染み渡りました。
そうしてお殿様はやっと思い出しました。
ご家老様のこの言葉をご自分がずっと待ち詫びていたことを。
しかしそれは口に出してしまえば儚く消えてしまうような気がして、岸辺にあった時には二人ながら同じく心に抱きながら決して伝えられずにいたものでした。
そうしている間にも水の量は増していきます。
重さに耐えきれず船は傾き、とうとう二人の身体は水の中に投げ出されました。
固く抱き合ったままの二人を迎え入れるそれは少しも冷たいことなどなく、かえって心地よく肌を包みます。
--俺もだ、左近。ずっとずっと。
お殿様も、たったそれだけを伝えようとしましたが開いた口に流れ込む水のせいで上手く声になりません。
二つの身体は固く抱き合ったままふかくふかくしずんでゆきます。
水の底は真っ暗で何も見えず、果てなどは無いようにさえ思われます。
けれどお殿様はもう何も怖いものはありませんでした。
お殿様にとって、我が身を固く抱き締める二本の腕と、二度と離れないと誓ったご家老様のその言葉があるのならば、たとえどんな場所であろうともこれ以上の極楽はないのですから。
書きかけてほうりっぱなしだったお話をリサイクルシリーズ 時代はエコ
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