左近、左近とヒステリックに自分を呼ぶ声は心に刃のように突き刺さる。
 見境無く叫び散らすそれに、左近ならここにいますよ、三成さん。今、何時だと思っているんですか。ご近所に迷惑でしょう、と答えながら左近は彼に気付かれないように盛大にため息をついた。

 
 どうせまた会社でなにかあったに違いない。
 ささいなきっかけで同僚と口喧嘩をしたとか、想い描いていた計画の通りに仕事が運ばない、とか例えばそういうこと。
そんなことがある度に三成は相手の無能ぶりを容赦なく罵った。
当人の前でだけでは飽き足らず、こうして深夜に帰宅してからも、ただ一緒に暮らしていると言うだけで三成の憤りには無関係な左近の前で。

 最初はいつもは冷静な人の尋常ではない様子に何故、と驚きもしたがこの頃では左近も慣れっこになって来てこんな時の対処も心得た物だ。
 はいはい、少しだけ待っていてくださいね。すぐに行ってきますから。
 リビングの床に放り投げられた彼の財布を拾いあげる左近に、部屋の隅に踞る三成は顔も上げずに命じる。
 そこに入ってる分、全部だ。わかったな、それで、買えるだけ全部。
 無言のまま左近はジャケットに袖を通した。

 

 

 

 しん、と冷たい夜の中を大通り沿いのコンビニまで歩く。
 人工的な光に溢れた店内は、日付も変わって随分経ったこんな時間にも関わらず客足が絶えない。
 はしゃぎ合う若いカップル、夜遊びの女子高生、夜食を探すサラリーマン。
 そんな人々の間を縫うようにして左近はほとんど盲目的に棚に並ぶ食料をカゴに放り込んだ。
 溢れ返るカゴに、深夜のアルバイトは眠そうな顔をあからさまに歪める。
 左近の後ろにもレジを待つ人の列ができて、苛立って足を踏み鳴らす音が聞こえる。
 ぶっきらぼうに告げられた金額はコンビニで使う額にしては高価だったが、預かった財布の中身をすっかり使い果たすのにはほど遠い。
 まだ十分に膨れたまま返されるそれを見て彼はまた金切り声を上げるだろう。
 なんで言ったように買って来なかったんだ、お前は使いもできないのかこの役立たず、と罵るだろう。
切れ長な目尻を引きつらせた三成の顔を想い描くと、膨れ上がったビニール袋の重みが指先に食い込んだ。

 

 

 

 お待たせしました、ただいま帰りましたよ。
 左近が言い終わらないうちに、三成は彼の手のビニール袋をひったくって、その中身を漁り始めている。
 なんだ、たったこれっぽち。これじゃ全く足りやしない。
 文句を吐くその間も惜しいとばかりに、三成の口には手当り次第に食べ物が詰め込まれていく。
 おにぎりのビニール包みを歯で引きちぎり、スナック菓子の袋に顔を埋めるようにして、それらをろくろく咀嚼せずに炭酸水で流し込む。
 ぼろぼろと床に食べカスをまき散らして、目の前のものをひたすら胃の中に流し入れるようなその行為を、何も言わずに見守る事しか左近にはできない。
 表情の無い目でこの作業に没頭する三成からは何の感情も読み取れない。
 美味しいとか、不味いとか、甘いとか、辛いとか。
 それだけではなく、彼の抱える憤りや、果たしてこの行為に満足感を得ているのかさえも。
 あれほど喚き立てていたのが嘘のように彼は大人しい。
 ただ、与えられた物を咀嚼し、嚥下する音だけが深夜のリビングに聞こえている。

 
 口に入れるのならせめてジャンクフードではなく少しでもましな物を、と手料理を作ったり、菓子にしたって有名なパティスリーのケーキを並べてみたりもしたことがあったが、そんな左近の気遣いはことさらに三成を苛立たせただけだった。
 どうしてこう、お前は余計な事ばかりするのだ。
 驚く左近に声を荒げて三成は言い捨てた。
 どうせ後で全部吐くんだから腹に入ればなんだっていいんだ。
 そこでやっと、左近は彼のしている事の意味と無意味に気付いたのだった。

 
 次に伸ばされる手の動きが次第ににぶり、それでもテーブルの上を覆っていた食料がほとんどその姿を残骸に変えた頃には三成の顔色は蒼白に変わっている。
 腹に収まりきらず喉元にせり上がってくる吐き気を耐えているのか、細い肩が離れていても分かるほど震えていた。
 大丈夫ですか。
 それに手をかけようとした左近を跳ね飛ばすようにして三成はバスルームに駆け込んだ。
 激しく水を流す音と元に引き絞るような嗚咽が聞こえて、左近は一瞬追いかけて行くことを躊躇った。
 それでもやはりこのまま放っておく訳にはいかない。
 息を一つ胸に飲み込んで、磨りガラスのバスルームの扉を開けるとそこには案の定便器を抱えて食べた物を吐き出す三成の姿。
 落ち着いて。喉に詰まらせると危険だ、ほら、ゆっくり。左近が付いていて差し上げますから。
 うめき声を漏らす顔は伏せられたまま、きっと吐き出したものやら涎やら涙やらに塗れてぐちゃぐちゃに汚れているだろう。
 彼はそんな無様な顔を、絶対に左近には見せては呉れないだろう。
 自分がここにこうしている限りは三成は顔を上げられない。
 吐き続ける事も止められない。
 わかっているのに、左近には三成の側に寄り添い続けることしかできない。
 声は弱いすすり泣きに変わっている。
 空っぽになってしまった胃からはもう何も出て来ない。
 それでももっと深いところ、身体のずっと奥にわだかまる澱を吐き出して、そうやってすっかり身軽になって、何事も無かったかのように傲岸な顔をして朝を迎えられるように。
 骨の浮いた華奢な背を擦りながら、けれど左近は本当に触れて慰めるべき場所に決して自分の手が届かないことを知っている。