蝶の刺青を彫って欲しいと言う依頼が来たのは夏も終わりかけの時分でした。
 私はもともとは尾張の生まれなのですが、その頃は安土のご城下で彫物師を生業としていたのです。
 このご時世、戦も盛んでありますが、人様より少しでも目立とう、自分を飾り立てようという方々もいらっしゃいまして、私の商売もまあ日々の暮らしに事欠かないくらいには忙しくやっておりましたものです。
 

 ああ、そこで蝶の刺青です。
 

 これがまた、おかしな客でして依頼にいらっしゃったのが、頭巾で顔を隠されてはおりましたが、お侍様なのでした。なんでも極秘裏にということでしたので私もこれは少しおかしいなと思ったのですが、何せ報酬が破格でして、そのお仕事を二つ返事でお受けしたのでございます。
 約束の日、私は家を出る時から、分厚い布で目隠しをされ、大層立派な駕篭に乗せられました。
 どこをどう廻ったのか、やがていずれかの屋敷に着いたようです。駕篭から下ろされ、今度は長い長い廊下をお小姓に手を引かれてゆきます。
 真っ暗な闇の中を、どれだけ歩いた事でしょう。
 やがてお小姓はある部屋の前で止まり、私に控えるように肩を押しとどめました。
「失礼致します。ご所望の者をお連れ致しました。」
「入れ。」
 それは地獄の底から響く、そんな声でありました。
 すっと、音も無くお小姓が障子戸を開け、私の背を促して中に入るように命じます。
 再び障子戸が閉められたとき、私の目隠しも外されました。
 随分長い間、闇の中にいたのと、もうすっかり日の暮れたお部屋の中が薄暗いものでなかなか目に光が戻りません。
 それでも段々と戻ってくる視界に一番最初に映ったのは、脇息にもたれ杯をあおいでいる男の方(おそらくこの方が先ほどの声の主なのでしょう)。そうして何やら白いぼんやりとした塊が男の方の後に敷かれた褥の上に投げ出されているのが見えます。
 部屋の四隅に置かれた燭台の明かりを頼りに、次第に辺りの様子も分かるようになるにつれて、私は愕然と致しました。
 白い塊、と私が申しましたのは、一糸まとわぬ姿で横たわった一人の女なのでありました。
 肉付きの良い身体はそのくせ、腹の辺りがきゅっと締まり、すっくと伸びた細い首の上にある顔はうつぶせられていたせいでわかりませんでしたが、複雑に結い上げられた髪に挿された螺鈿の飾りが夜気に震えてきらきらと音を立てます。
 そうしてなによりその肌は一点の染みも無く、私は仕事柄幾百幾千の肌に触れて参りましたが、その誰もが持ち得なかった南蛮渡来のビロウドのようにしっとりとした艶をまとって、内側から仄かに照り輝くようでありました。
 眼前に晒された女体から目が離せずに居る私に男の方が言いました。
「話は聞いておるな。
 蝶を彫ってもらいたい。この女の背いっぱいに羽を広げた蝶を。」
 びくり、と女の方の肩が強ばりました。
「上総介様っ。」
 思わず口をついて出てしまったのでしょう。女の方ははっとしてまた口をつぐみます。
「なんだ、まだ覚悟がつかぬか。」
 嘲りさえ含んだ声で男の方は責めます。
 一時の逡巡の後、弱々しく頭を振ってすっかり諦めたように女の方の身体から力が抜けます。
「始めよ。」
 男の方、先程、上総介様と呼ばれたお侍様に促され私は仕事の支度を始めました。
 商売道具の針を並べる手がかたかたと震えます。
 とんでもないところに来てしまった。
 そう思ってももはや遅いのです。
 私の思い違いでなければこの方は、上総介様と呼ばれたこの方は、織田信長様といってこの安土の街の、いいえ今や日の本の半分を手にされたお殿様なのです。
 そんな方が彫物師の私をお召しになった。
 目の前の女の方の背に蝶の刺青を刻ませる為に。
 そのような仕打ちを受けるこの女の方は一体どのようなお人なのでしょう。
 先程の信長様を呼ぶ時の声、髪を彩る高価な飾りから、信長様にごく近しい方のように思われます。
 すると自ずからそのやんごとなきお立場が推測され、私がかの肌に下書きの筆を走らすのさえ戸惑っておりますとそんな私の心中を読み取ったのか再び信長様が促します。
「何を遠慮することがある。裸に剥けばただの女ぞ。始めよ。」
 お言葉にさからうことも出来ず、私はやっとの思いで目の前の生きた画仙紙に下絵の墨を引きました。
 花も風もいらぬ、ただ一羽の蝶を、との信長様のお言葉で私は真っ白な背一面に羽を広げた揚羽を描きました。
 下絵に沿って線を入れ、今宵のところの作業は仕舞いです。
 仕事の終わりを告げるとまた小姓が目隠しをいたします。
 手を引かれ、来た時のように駕篭に乗せられて家に着いた時にはすでに空は白々と開け始めておりました。

 

 

 

 

 それから私は毎夜、お屋敷に通うこととなりました。
 針を刺す際、その痛みから逃れる為に南蛮渡来の薬液を使うことがございます。それを口にすれば半ば眠ったようになって、夢うつつのうちに苦行を終えることが出来るのです。
 いよいよ本格的に背に針を入れる、となったその時、女の方にその薬を用いようとした私を信長様は止めました。
 この女は痛みには慣れている、苦痛を好む性質ですらいるのだ、と。
 主人にそのように言われては私たちが抗う術もありません。
「お声をお上げくださいませ。」
 私は女の方の耳元で、その人にだけ聞こえる声で囁きました。
「その方が痛みを逃せます。」
 気を失うほどでないにしても、いいえ、気を失ってしまえればどれだけ楽でしょう。
 束に重ねた針に絶え間無くその柔肌に差し貫かれるのです。
 特に肩甲骨ですとか、背骨ですとか、皮膚の薄い骨に近い部位は格別の痛みがございます。
「ぁあ...ああ..。」
「痛いか、お濃。」
 信長様が話しかけられますと、お濃様、呼ばれたこの方はそれでも額の汗をふりまいて首を横に振るのです。
 大の男でも泣いて途中で逃げ出す者がいるほどの苦痛、痛くないはずがございません。
 褥にはにじみ出た汗でお身体の形がくっきりと染められ、その上でお濃様の肢体が蛇のようにのたうち、時折びくり、と大きく震えます。
 無意識のうちにか、お濃様の手はすがるものを求めて這い回ります。けれど信長様はそれに答えてやる事も無く、片手にした杯をそのままにそれをただじっと眺めていらっしゃるだけなのでございました。その目には愛情も哀れみさえも、およそ感情という物は一切感じられず、ただ目の前の現象を網膜に映し取る観察者に徹しておいでだったのです。
 本来ならば、墨を施される者の体力を考えて三日おきに針を刺して行きます。
 墨を入れればそこは腫れ上がり、発熱する者もあるのですから私たちは仕事を急ぐ事はいたしません。
 しかし信長様はそれをお許しにはなりませんでした。
 私は夜毎にお屋敷に呼びつけられ、お濃様の背の蝶と向き合う事になったのです。
 白雪のようだった肌は紅く爛れ皮膚の特に弱い部分はじくじくと透明な液をにじませ、お濃様の額には針を刺す前から高熱の為に汗が浮かんでおります。そんな身に新たな針を受入れるお苦しみはいかばかりであったでしょう。
 それでもお濃様は眉根を寄せ、唇を噛み切らんばかりに食いしばって耐えるのです。
 そうして相変わらず自分を観察し続ける信長様を見つめ返す目だけは熱に浮かされてか、涙ににじんでどこかうっとりと、恍惚とした色をたたえているのです。
 このお方が何故これほどまでの仕打ちを受けねばならぬのか、そしてその仕打ちを自ら進んで受入れているのか、凡人である私にはとうてい理解の及ばぬことです。
 けれどお濃様の信長様を見るその目には怨みの欠片さえも浮かんだ事は無く、それが快楽であれ、今は私の手を介して与えられる苦痛であれ、信長様によってもたらされる全てを至上の喜びとして身に刻ざむ、思えばそれはお二人の間でのみ成立する事を許された愛の交合なのでした。
 羽に最後の紅を入れ、私の蝶は完成致しました。
 私もこれまで随分と多くの肌に刺青を描いて参りましたが、これほどの出来は初めてです。
 今にも夜の闇に飛んで行きそうな、それが叶わずに地に伏してもがいているような、艶かしい蝶が羽を広げるその様に、ほぅ、と信長様もため息をつかれます。
「良くやった、褒美をとらす。」
 信長様が手を打ち鳴らすと小姓がもうこれから一生遊び暮らして行けるだけの金子の乗った三方を捧げ持って入って参りました。
「ありがたく、ありがたく、頂戴いたします。」
 平伏する私に、信長様は面を上げよとご命じになりました。
 顔を上げたその瞬間、信長様の抜いた刀を一閃させ、私の目をお斬りになったのでございます。
 そうして私は、彫物師としての腕を失い、代わりに永久の闇を得ました。
 女の背で永遠に生き続ける蝶を生み出したその瞬間、私はもう用無しとなり果てたのです。
 

 

 

 

 それから数年の後でございます。
 京の本能寺で、信長様が討たれたと聞いたのは。
 その傍らにはお濃様もいらっしゃったとお聞きしています。お濃様はきっと最後まで信長様と添い遂げられたのでございましょう。
 今、私のこの盲いた眼裏には、やっと現世のしがらみを解き放たれた蝶が紅蓮の炎の中、火の粉の鱗粉をまき散らして天に向かって舞い昇っていく姿が、ありありと浮かび上がってくるのです。

  

   

 

  

  

   

 

  


無双ですがBASARAでも良いような気がしてきました