まだ湯気を纏う薄い黄色のかたまりを口に運んで三成は眉をしかめた。
「どうしたんです、殿。殻でも混じっていましたか?」
向かいに座った左近は心配そうにその顔を覗き込む。
「甘くない。」
そう呟きながらも続けてもうひとくち頬張るところを見ると、どうやら口に合わなかったわけではないらしい。
「そりゃそうです。
殿がいつも食べてるのは砂糖たっぷりの卵焼き。
これは出汁巻き卵。左近の酒の肴なんですから。」
ふぅ、とため息をついて左近は次々と減っていく皿の上の出汁巻き卵を少しだけ恨みがましい目で見つめた。
左近が帰宅したのは数十分前のこと。
このところもはや日課となってしまった残業を終え、疲れきった身体に鞭を打って冷蔵庫を覗き込んで左近はそこでもまたがっくりと肩を落とした。
そこにあるのは賞味期限ぎりぎりの卵が1パックだけ。
そういえば最後にスーパーに行ったのはいつだったか。
オフィスでコンビニのおにぎりをつまんで以来、今日は食事らしい食事を摂っていない。
かといってこれから外にでる気にもならず、仕方ない、これを出汁巻きにして大根おろしをたっぷり添えて一杯やろうか。そんなふうに思案していると灯りの無いリビングで人の身じろぎする気配がした。
「殿?」
「左近か。随分遅かったな。」
ソファの影から現れた恋人に左近の頬は緩んだ。
「今日は左近を待っていてくれたのですね。うれしいですな。」
一緒に暮らしているとはいえ三成の声を聞くのは久しぶりだった。
深夜に帰宅して短い睡眠を取りそしてまた次の朝出かけて行く、そんな生活の中でまともに顔を合わせる時間もとれない。
今日もまた待ちくたびれてとっくにベッドに潜り込んでいるとばかり思っていたのに。
「左近を待っていてくれたのですね。うれしいですな。」
素直に気持ちを言葉にすると、三成は抱き締めたクッションに顔を埋めてぶっきらぼうに言う。
「腹が減って眠れぬのだ。夜食を作れ、左近。」
こちらはなかなか素直になれない恋人に苦笑しながら、左近はジャケットを脱いでキッチンに向かった。
三成のリクエスト通りに夜食の出汁巻き卵を作り、大根おろしを添え、自分の為の冷酒と三成のための番茶を用意してふたりでテーブルにつく。
そうして、まだ湯気の立つ薄い黄色のかたまりを口に運んだ三成が発したのが件の言葉。
もくもく食べ続ける三成と、減っていく皿の上を交互に見ながら左近はもう一度、今度は少し大きなため息をつく。
さて、他に何か食べるものは残っていただろうか。
思案しながら左近はふと気がつく。
「殿がこの時間にこんなに食べるなんて珍しい。
大谷さんのところでお夕飯は食べて来たんでしょう?」
自分が面倒を見切れぬ昼間は三成は近所にあるカフェに入り浸っている。
それこそ三食の世話から健康管理やメンタルケアまで、三成のこととなると血眼になるカフェの主人のおかげでそこはもはや三成専用の託児所のようになっていた。
彼の異様なまでの情熱に一抹、どころか多大な不安を抱かないわけではないが、三成に毎日ひとりで寂しくおうちでお留守番を強いる気にはとてもなれない。
「それが、少し変だったのだ。」
箸の先で大根おろしを除けながら三成は首を傾げてみせる。
「変?あの人がおかしいのはいつものことでしょうに。」
左近の脳裏に主人の何を考えているのかわからない薄ら笑いが浮かぶ。
「何を言う。紀之介がおかしかったことなど一度も無いぞ。
それがおかしかったから、こうして飯もそこそこに帰って来たのだ。」
「ほう、どうおかしいのですか?」
三成の前では温厚な常識人の仮面を決して脱がないはずの彼がボロを出すなんて。
これは保護者として確認しておかなければ、と左近は問いを返した。
「紀之介だけではない。
今日はなんだかみんな少しおかしい。
兼続は実家に帰ってしまったし、幸村までもが気分が乗らないと言って姿を見せなかった。せっかく一緒にDSをやる約束をしていたというのに。
紀之介も朝からずっとふさぎ込んでいて、客が来ても空気を読んで帰ってしまう。
俺も長居できずに帰って来てしまったというわけだ。」
「ああ。それで、左近を待っていてくれたのですね。」
「夕飯を食べそびれたからな。でも、」
それだけじゃない、と小さく呟いて見上げるようにみつめて来る三成の瞳は不安げに揺れていた。
「左近はどうだ?今日は何かいつもと違うか?」
訊かれて左近は考え込んだ。
おかしいといえば今日は妙にイライラする事が多かった。
自身の性格を温厚とは思っていないがこれでも左近はそれなりの年を重ねた大人である。
怒りを飼いならす術くらいは身に付けていたつもりだった。
それがどうだろう。
電車の中で隣に立った青年のヘッドホンの音漏れに思わず本気で睨んでしまった。(彼は青い顔をして次の駅でそそくさと降りて行った)
いつもなら笑って注意するミスを許せずに大きな声で部下を叱責してしまった。(彼女はそれから一時間ほどトイレに籠って出て来なかった)
ランチで入った定食屋でオーダーを間違えた店員にわざと聞こえるように舌打ちをしてしまった。(お詫びの印として1食サービス券を進呈されたが、流石にこれを喜んで使う気にはなれない)
万事がこんな調子であったので仕事が上手く進むはずも無く、左近はいつもより早めに残業を切り上げてきたのだった。
「そうですね...思い当たる事はありますが。殿は?」
「妙に胸がざわめく。」
他に表現の仕様がない、といったように困った顔をする三成に左近は身を乗り出した。
「ふむ、熱は無いようだ。
どこか痛いところでも?」
「ここが、つん、とする。」
額に置かれた左近の手に自分のそれを重ねて胸に運ぶと、三成は小さく呟いた。
「殿...。」
「左近...。」
「せっかくの殿からのお誘いですが、左近は明日も朝が早いのです。
しかし殿がご自分でなさるというなら見学させていただくというのもやぶさかでなく..がっ!」
三成の拳をこめかみに喰らった左近は無様な叫びをあげてテーブルの上に崩れ落ちた。
「誰が誘うか、この痴れ者!」
もう寝る!と言い捨ててベッドルームに消えた背中を苦笑いで見送りながら、左近は今日が一体なんなのか考えていた。
誰の誕生日も思い当たらないしもちろん祝日でもない。
左近と三成が出逢った季節は全く別だしなにかの記念日でもない。
夏の熱も消え去って厳しい冬にはまだ遠いはじまりかけの秋。
乾いた空気が空気は心地よく、なんでもない、いつもの平日。
--なにかあったかな?
カーテンの隙間からのぞく月を見ながら思考を巡らす。
「あ、思い出した。」
何気なく目をやったカレンダーに左近は小さく叫んだ。
そうだ、明日は近所のスーパーの特売日だ。
肉魚野菜に日用品まで。問答無用で全品レジで3割引。
久しぶりに買い出しに行こう。
三成と一緒に、自転車に乗って。
さてその為には明日こそ本当に早く仕事を切り上げなければ。
大きくひとつ伸びをして、空いた食器をシンクに運ぶ。
片付けは明日にして今日はもう眠ろう。
部屋の灯りを消し、左近は一足先に恋人が温めてくれているはずのベッドに向かった--。
誰もいなくなったリビングのカレンダーの日付は9月15日。
それもあと数分で終わろうとしている。
皆の胸に小さく掻き傷を遺しただけで。
明日になれば跡形も無く消える、その傷は“あの日”のずっと未来の記憶
2010年の関ヶ原に間に合わせようと書いていて完成がアップしているのが年明けとはこれ如何に?
カフェ現パロは生まれ変わりでも前世ものでもないのですが、“その日”にはみんなちょっとずつバランスを崩すのです
旧暦の9月15日は現在の暦だと10月になるのですが、ややこしいのでそのままの日付にしました
気候的には10月の方のイメージ。9月だとまだ残暑が厳しいですね
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