梅はとうに散って、桜にはまだ早い。
去り難そうな冬と足音を忍ばせる春の間、思いがけず転がり込んだニ週間の休暇。
病院のベットの上、という条件がつくもののこのところ会社と自宅の往復が続いていた身には、この“何もすることが無い時間”というものは何よりの贅沢だ。
残して来た仕事が気になるが、あらかたの指示は見舞いに来た部下に伝えてある。 大きなヤマではないし、この機会に若い連中を育ててみるのも良い。
独り残された恋人は変な虫がつかないように彼の友達のところへ預けた。 友達の通うゼミの合宿に特別に同行させてもらうのだという。仮面の教授と巡る14泊15日全食事付き2週間の京都・奈良史跡の旅。 鹿に喰われそうになった、という連絡があったのが3日前。どうやら無事で楽しんでいるらしい。
おそらくは同じ物を食べ、それが原因で仲良く入院し、何故だかベットもお隣になってしまったカフェの店長は、悪い人ではないのだが一緒に長く時間を過ごす相手ではない。 彼のベットから漏れ聞こえる物騒な妄想の数々はもはや左近の理解の領域を越えた。 青年バリ攻オヤジ受激裏ハード鬼畜SM監禁調教異物挿入スカ愛ナシ21歳未満閲覧禁止とは一体なんだ。大谷×左近なんて茨ジャンルにも程がある。もっさいおっさん同士が漏らす野太い喘ぎ声にどれだけ世間の需要があるというのだ。
気分転換に左近は病室を抜け出して屋上へと足を運ぶ。
院内で唯一の喫煙場所であるここでは誰に気兼ねすること無く煙草が吸えるし、空以外に何も見えない殺風景さが気に入っていた。
売店で買ったマイルドセブンに火をつける。
ふぅ、と胸に溜まった最初の一息を吐いたとき、
「煙草、止めてなかったのね。」
背中に投げかけられた声に振り向くと、白衣姿の彼女が立っていた。
「花野...先生。」
「私にもちょうだい。」
胸ポケットから細長い箱を取り出すと銜えたバージニアスリムのメンソール。ライターを勧めようとした手を断って、彼女は左近の吸っている火を器用に移す。
「花野でいいわよ。“島さん”。」
フェンスにもたれた左手の薬指に光る銀色のリング。
短かめのボブが細い顎のあたりで揺れている。
何にも飾られることの無い指と、長く風に吹かれる髪を持っていた頃の頃の彼女を左近は知っていた。
この病院に運び込まれた時、対応にあたった彼女とはお互いに知らないふりをした。
主治医が決まってからも彼女とは病院の中で何度かすれ違ったけれど、軽く会釈を交わす程度。
ひとりの医師と患者のまま、左近が退院していくことを彼女は望んでいるのだと、その態度から思っていた。
「まさか、こんなところでまた会うなんてね。驚いたわ。」
「驚いたのはこっちだ。ここ、お前の病院なんだってな。」
「私のじゃないわ。父のよ。私はただの内科医。今のところはね。」
随分昔のことだ。今の会社に入ったばかりの頃、身体を壊して倒れたことがあった。
能力を買われてのヘッドハンティング。それに見合う働きをとろくに食事も摂らずに無理をした結果だった。
まだ研修医であった彼女に出会ったのはその時のこと。
長い髪をひとくくりにして、縁のない眼鏡をかけていた。飾り気の無い出で立ちと落ち着き払った物腰のせいで随分年上に見えた。
先輩の医師たちが出す指示をてきぱきとこなし、毅然と仕事に臨む。強い人なのだと思った。
どんな患者にも丁寧に接する姿に彼女の真っすぐな優しさに、いつしか惹かれていた。
女性とは深く関わらず、決して恋人とは呼ばせない。お互いが楽しめれば良い後腐れの無い付き合い。 そんな関係ばかりを重ねて来た自分が、彼女の前では恋を知ったばかりの少年のように懸命になっていた。
3年間つき合った。
結婚を言い出したのは左近の方からだ。
時を重ねて二人の間に漂う成熟した雰囲気に、それをきちんとした形にしたいと思った。
けれど、彼女の口から返って来たのは想像もしなかった言葉。
--貴方のことは好きよ。でも、結婚はできない。
実家の病院を継ぐために結婚を薦められていること。
一人娘の自分には同じく医者である相手がふさわしいと親も自分も考えていること。
その条件に左近は合わないのだということ。
それでも、左近のことが好きだということ。
そして最後に、彼女はこう言った。
--最初から分かっていたことなのに、貴方を諦められなかった。
本当に人を好きになったのは貴方が初めてだったから。
これが私の最後の恋だわ。
その時に完全な終わりを受入れられなかったのは、どう言い訳しようとも未練以外の何物でもない。
ふたりの関係は、彼女が結婚してからもしばらく続いた。
彼女からの連絡が突然途絶えるまで。
「おーい、花野。こんなところにいたんだね。お養父さんがまってるよ。」
ちょうど一本を吸い終わった頃、彼女を呼ぶ声がした。
携帯用の灰皿に吸い殻をしまい込んで彼女が手を振るのは、柔和な表情を浮かべた男性と彼に手を引かれた男の子。
「ママ!」
男の子が父親の手を振りほどいて彼女に駆け寄る。
「きよ君。」
名前を呼ばれた男の子は満面の笑みを浮かべて母親にしがみつく。
「ぼくね、きょうね、ようちえんで おひなまつりの おだいりさま やったんだよ。」
「そう。楽しかった?」
「うん!りんちゃんが おひなさま だったの。これ ママにあげる。」
小さな手が差し出したのは桃の枝。可憐な薄紅の花がどこか恥ずかしげに咲いている。
あの時、何を犠牲にしてでも彼女を自分のものにしていたら、目の前にある家族の光景の中に自分は居たのだろうか。
そうするにはお互いに守らなければならないものが多すぎた。
仕事、家族、友達。それまでに築いて来た身の回りの全てを天秤にかけて出した結論に後悔はしていない。けれどあり得たかもしれないもう一つの未来を思ってしまう。
「あら、素敵ね。ありがとう。
先にパパとおじいちゃんのところへ行っていて。ママもすぐに行くから。」
男の子は名残惜しそうに頷くと、ふいに左近に目を向けた。
初対面の大人にも関わらずまっすぐにぶつけられる視線。それはほんの一瞬だったけれど、確かに左近の心のうちに強い印象を残したのだった。
「じゃ、待ってるからね。」
左近にも軽く会釈を残し、父子は階段を下りて行った。
「いい子だ。」
「清興、っていうの。」
「え?」
「あの子の名前。」
彼女は薄く微笑んだ。
「昔、貴方と考えたことがあったわね。子供が生まれたらどんな名前にしようかって。」
たわいもない睦言の中にそんな会話を彼女と交わしたことを覚えている。
その中に確かにあった名前。
「幼稚園でもモテモテ。
バレンタインデーなんか両手一杯にチョコレートもらっちゃって。
誰に似たのかしら。将来が楽しみだわ。」
いつの間にか耳元に寄せられた唇が低く囁く。
「怖がらないで。
より優秀な遺伝子を残したいと考えるのは生物として当然の本能よ。私はそれに従っただけ。
貴方にはこれ以上の何も要求しない。だって、」
私は今、とても幸せなのよ。
手にしたままの煙草の灰がコンクリートの上に落ちる。
彼女の顔を見ようとする前に、気配は遠ざかった。
「早く元気になってね。貴方も幸せに。」
風に翻る白衣が脇をすり抜けて行く。
満ち足りた声は、彼女の最後の恋がまだ終わってはいないことを告げていた。
すっかり冷たくなった指先で新しい煙草を取り出して火をつけてみる。
ため息のように吐いた紫煙は乾いた青空に融けてすぐに消えた。
決定的なことは言っていないので真相は薮の中、ということにしてください
どこにも続きません
うちのサイトに癒し系の女などいない
花野さんと実家が病院設定は『関ヶ原』から
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